私  印可前、もどかしさは、道伴の人たちとシェアしてたんですか?

火山さん

そのときは交流を一切しなかったんだ。話したからって解決することじゃなかった。自分は一番年下だったから、みんなかわいがってくれたけどね。

センターにいる人たちに話をしてもね、
「他の人に認められたいという気持ちがある」と僕が言うと、
「そうか、なんで、そんな気持ちを持つと思うんだい?」って言われて、
「認められるといい気持ちになるからうれしい」と、僕が答えると、
「そうか、なんで、いい気持ちになるとうれしいんだい?」、

というふうに、聞いても聞いても、くるくる同じところを回っているような気がして、なんの解決にもならないと思ったんだ。

誰かが話してくれたことは参考にはなったとしても、自分のことは、自分自らが解決しないといけなくて、師匠の言われた言葉が、自分にとっては禅問答の公案のようになっていたから、そのときからずっと、深く掘り下げていくということを始めたんだよ。

どういうふうに深く掘っていたかというと「なぜ、どうして、これをやっているんだろうか?」って、いつも自分に聞いてみた。僕が持っているもどかしさは、もっと偉大な誰かであっても、決して解決はできないんだ。もちろん、方向を変える契機にはなることはあるけど、たとえ師匠が奇跡のような能力を見せてくださったとしても、自分が悟ることができなければ師匠の見せてくれた能力なんて、埃のように飛び去ってしまうものなんだ。そのもどかしさが解けなければ、師匠を殺してやるぞっていうくらいに思ってた。それが自分のためにしてあげれることじゃないかなって、それほど思い詰めてた。

結局、そのときはわからなかったけど、自分が自分のことを押し殺して追い詰めていたんだ。

自縄自縛っていうじゃないですか。自分で縛って自分で身もだえしている。自分で自分を縛っているという状態は目に見える状態じゃないでしょ。でも紙に書いてみたり、こうして話たりしながら、自分が自分を縛っているということをはっきりと感じることができるようになった。

ここで誰かがどんなことを言ったとしても、人の言うことを鵜呑みにするんじゃなくて、常識的に自分で判断してみようっていうのが、自分を知ることのパターンになっていかないといけないような気がするよ。他の誰かが決めることなんじゃなくて、とにかく自分が一番楽になること、自分が一番好きなことをいつもいつもやるように。

僕は、命を懸けてもやりたいことっていうのが悟りだったんだ。でも自分が命懸けでほしいって思っていた、その悟りっていうものが、実は自分がつくっていた幻だったんだってわかった途端にとてもとても軽くなったよ。

ただ手放すってことではなくて、それが実体のない、自分のただの「考え」にすぎなかったということを、はっきりと理解した瞬間だったと思う。

もどかしいからと言って、誰かの話をきいてそれを解決しようとしたら、ずっと、ただひたすら、くるくる回るだけになっちゃうよ。もし、もどかしさが浮かび上がったときには「なぜ、私はもどかしく思っているか」っていう文章を、ひとつだけ書いて、考えてみたらいんじゃないかな?そういう見方をしていったら、どんな問題が自分に押し寄せてきても、自分の中で解決できるという確信が生まれてくるよ。紙に、その内容をひとつひとつ書いてみると、その中に矛盾した内容があるかどうかっていうのがはっきり見えてくる。

自分が楽しいこと、うれしいことをやりながらでも、反面でそれを疑っているような自分がいるとしたら、楽しいことをやりながらも、自分が本当に楽しいのかって疑っている自分がいると、矛盾した内容になるでしょ。なにか問題が起こると、自分にとっての悩みやもどかしさが起こってくると、いろんな角度から眺めてみようとするんだけど、なにかになりたいと思うなら、なにかをわかってみたいと思うなら、逆転して見てみるっていうこと。

これを得たいと思っているけど、なんで得たいと思っているんだ。なにが物足りなくて、これを得たいと思っているんだ。実際には、命を懸ける価値のないものなのに。

なぜ、このことを、ずっとつかみ続けたいと思っているんだろうかってね。