ミルさん

では、怒ったときに、私はどんな方法を選択し続けるのか、

  ※私が怒りました
       ↓
   その怒りを解消するために
      (ストレスを解消するために)歌を歌いました  
       ↓
   でも、そのうち歌を歌っても、
      その怒りを(ストレスを)解決することができなくなりました 
       ↓
   歌では解決できなくなったので、お酒を飲むようになりました

                      
そして、

「私を見る」 ということは、

   「なぜ私は、お酒を飲んでいるんだろう?」
       ↓
   「歌を歌っても解決できないから、お酒を飲んでいるんだなあ」 
       ↓
   「じゃあ、なぜ私は歌を歌い始めたんだっけ?」 
       ↓
   「怒りを解決しようとして、歌を歌い始めたんだなあ」 
       ↓
   「じゃあ、私が今、発しているこの怒りは、誰が作ったんだっけ?」 
       ↓
   「私が作った」

となります。

でも多くの人達は、

  「〇〇のせいで私は怒った」 
  「私は悪いところはひとつもないのに 〇〇のせいだ」 
  「いつも〇〇のために、〇〇のせいで」 

という答えが準備されています。

「〇〇のために」、「〇〇のせいで」という考えに陥っているのは、
私を見ることができていない状態です。

    誰が〇〇のせい、という限界を作っているんでしょうか
       ↓
   私がそうしているんです 

ですから、「怒りというのは、私が作ったなあ」 となります。

私が怒りをつくる理由(「私が作った」までの過程)をわかるということは、私が病気だったとしたら、その病気がなぜ出て来たのか、なぜ病気になったのかということがわかるということ、その病気の原因がわかるということと同じことです。 

でも、ここで原因だけがわかって、病気を治すことができないならば、「私が作った」「私がそうしている」、その状態で終わってしまうならば、病気の原因がわかっていながら治療していないのと同じことです。私は病気になったってことがわかっていて、そのまま放置しているのと同じです。ここで私達がする修行というのは、病気の原因を探し出して、薬を処方して、病気が治るように行動することです。これが、知恵深い人、ということです。 

わかりやすくお話しようと思って、病気を例に取りましたけど、私のすべてのことに対して、代入して考えてみないといけません。

「私が作った」、「私がそうしている」

私に代入してみて、私が経験してみないといけません。私が持っているすべてのこと、区分とか、規定とか、限界、そういうものに対して理解がないといけません。 

そして私がなぜ、こういう規定、こういう区分、こういう限界、を持つようになったのかを理解しないといけません。

でも、実際に自分のことなので、見ることがむずかしいときは、私の「考え」や「感情」を、第三者の立場から眺めるようにすれば、考えというものに引きずられないし、感情に陥ることもありません。 

知恵が生まれてきますから、全体的な視野から、冷静に見ることができるでしょ。
感情的にもならないし、冷静に、理性的に判断することができるでしょ。 

私を自分ではなくて、もうひとりの別の自分が、患者である自分をケアしてあげるというふうに。そうしたら自然と、私の「考え」や「感情」を分離できます。
まず、そういうふうに自分自身に対して、見つめられたらいいと思います。 

「対岸の火事」ということわざがあります。
「対岸の火事」の「火事」は、私の「考え」と「感情」です。自分は痛くも痒くもなんともないんです。このように、川の向こう側で起きている火事を、安全な場所で眺めている、というふうにして、自分を見たらいいです。