ミルさん

「見性印可」(けんしょういんか)って言いますけど、

ゲート師匠からネットの掲示板で出される「見性印可文」について説明します。
これは、ゲート師匠の権利でくださるものです。 

      命と光の主、全ての三世諸仏に代わり

     私、ゲートが 〇〇〇 (IDと名前)の見性を印可します。

                        20××年×月×日

どういう意味かというと、

もし借金がその人にあって、その人が借金を返せないとしたら、師匠である私が代わりに返してあげますよ、というふうな文書と同じ意味です。その人に借金があるんだけど、能力がなくて払えないとか、払う気がなくて払わないのかわからないけれど、借金があってそれを払わないとするなら、師匠がこの人の代わりになって払ってあげますよ、という内容の文書なんです。

理解がおできになりますか?

人は輪廻をしながら、何回も何回もいろんな人に生まれ変わって生きてきながら、そのときごとにカルマというものがありました。また生まれ変わったとしても、カルマの影響が次の「生」にいきます。次の新しい「生」にカルマが作用します。

見性印可っていうのは、このカルマの作用がいかないというふうに、カルマの作用を切っちゃうということを師匠がする、ということです。 

ですから、見性したという人は、その人自身も一生懸命努力して、大きな人にならないといけません。「私」の明るさによって、周辺を明るくできないといけません。 

それは、見性した人がしなければならない約束事です。

「見性した」というのは、カルマの作用をそこで一旦切るということです。でも、その人自身が怠けて、また輪廻、カルマの世界に戻っていくなら、約束違反が起こったから、じゃ、誰がこの責任を持つんだ?って言ったら、師匠が責任を持ちます、と。借金(カルマ)があるとして、借金を払えないとしたならば、師匠がその借金を払います、というような意味の文章なんです。

青松さん 

結局、全部自分が創造してるわけですよね。では、自分でカルマを自分で切ることもできるし、維持することもできると思うんですれど、なぜそこでゲートさんが入ってくるのか、そこがわかりません。

ミルさん

実は、それだけの力じゃ足りません。 

いま、青松さんがおっしゃったように、自分でカルマの影響を受けないように切ってしまう、というふうにできるようになるならば、「一切唯心造」という、その力が、本当に花開くほどにならないといけません。 

見性というのは、修行の終わりではありません。終わりの段階ではありません。

考えの主人、すべての主人は私だということを、
たった一回経験したことにすぎないんです。 

ですから、ここで見性したと言われる印可者たちが、いまも一生懸命修行しているわけは、「一切唯心造」というその内容を、本格的に骨身に沁みてわかって、それをもっと体得して、広げていくという、その過程をしているから、いまもずっと修行を続けているんです。

いま、私が言った「師匠が介入」するっていう内容は忘れて構いません。師匠に対してありがたいって思う必要はないです、なぜならそれは、師匠が自分でやりたくて、好きでやっている行為ですから、私たちが神経を使う必要はないです。ですから、忘れちゃっても構いません。