ミルさん

ミルがいます、リボンさんがいます、青松さんがいます 青糸さんがいます。おのおのが自分の行く道を行きます。道をずっと行ってみると「一里塚」って書いてある看板があります。これが見性印可文です。

見性印可っていうのは、私が一里塚まで行かないといけないんです。 
そこまで行ってこそ、この看板を見ることができるんです。
道にあるこの看板が、私の方に来ることはないでしょ?
ここまで行ったからこそ看板を見ることができるんです。

この看板は、見性印可文というのは、お祝いのメッセージのようなものです。 

あなたが来ている道は正しい道だから、このまま続けて行きなさい。 

そんな意味の、お祝いのメッセージなんです。 

ここまで行くのは、私が行かないといけないことです。 
この看板のあるところまで行くというのは、私が行動しなければ起こらないことです。
これがまさに、切実さです。

理解だけで留まっているなら、看板まで行くことはできません。

そして、私がここに来てみたら、師匠が私に看板を見せてくれました。「ああ、お前はついに考えの主人になったんだな、お前が今までしてきたことは全部合っていることだから、これからも、もっと一生懸命やるんだよ」。まさに、ここからが本当の意味での修行の始まりです。
 
大部分の人達は、「一切唯心造」というのを疑いながら看板まで来ます。そして、ここに立って、この看板を見た途端に、一切唯心造というのは本当だったんだ、とわかります。

でも、私たちは肉体を持っていますから、肉体の持っているパターン、習慣のために、この境界線を、行ったりきたり行ったりきたりします。 

さきほど、師匠が責任を持ってくれると言ったのは、この境界線を、弟子がまたこっち側(境界線より前)に行こうとしたとき、そっちじゃない、こっち側に行くんだ、こっち側に行くんだって、ずっと押し続けてくれる、そういう意味です。私がこっち(境界線より前)に行くっていうのは、またカルマの作用の中に陥るということと同じことです。 

私がすべてのことの主人だから、カルマの影響受けないという「考え」だけを持ったとしても、実際の私の体、私の意識は、こっち(境界線より前)に来ているのです。ですから、カルマの作用を受けざるを得ません。さきほど青糸さんのおっしゃった、期待と切実さの違いです。 

私がこの境界線(看板のところ)にいるっていうことは、私はもう見性したんだからカルマの影響は受けないと「考え」の中では、こっち(境界線より先)に行っているつもりでも、私たちには肉体があって、肉体の習慣がそのまま残っています。

扇風機の電源コードを切ってもプロペラはまだ回っているでしょ?見性するということは、扇風機のコンセントを抜くと同じことです。 抜いた途端に「ああ、自分は抜いたな」、というふうにわかるんだけど、でも、習慣的にずっとプロペラを回し続けようとするんです。今まで持っていた習慣の通りに生きていくっていうことは、カルマの作用を受けて、カルマの作用にまた陥るっていうことです。ここで修行が止まってしまうということです。 

見性というのは修行の終わりではなくて、本当の意味で、より大きな成長のためのものです。

見性というのは、私の創造性をつくってみて、経験して、確認してみる作業です。 

ですから、一生懸命してみたら(神秘能力を得ようと思って修行するのではないけれど)、神秘的な能力が生じたりもします。わだかまりがなくなるので、今まで見えなかったものが見えたりもするし、以前は聞こえなかったものが、聞こえるようにもなります。

そこで重要なのは、そういう現象とか状態が、
私によって繰り広げられているんだということ、それをわかることが重要です。 

そういう状況とか状態に陥ってしまうなら、
視線をまさにそういう状態、状況に奪われてしまうということです。 

もう一度お話ししますけど、見性印可文というのは、師匠からのお祝いの言葉です。