ミルさん なにか質問はありますか?

青松さん 

境界線から戻ろうとしたとき、ゲートさんは自分の趣味みたいな感じで、
こっち(境界線より先)に後押ししてくれるんですか?

ミルさん

みなさん、カンボジアで師匠をご覧になってわかったように、
ずっとなにかを話されるじゃないですか。
 
弟子たちが境界線のこっち側(境界線より前)に戻ったのを、
またこっち側(境界線より先)に行くように、話すことによってプッシュしている。

さきほど私が、カルマの作用を受けることを切っちゃう、師匠がその役割をするっていう意味は、この意味です。ですから、本当の意味での修行の始まりは、見性したこのときからです。選択の主人、創造主として、それを体であらわしていくことの始まりなんです。
 
そういう体であらわしていく生活っていうのは、思考錯誤があるはずです。でも、境界線を越える前の思考錯誤と、境界線を越えてからの思考錯誤は、比較することができません。ここ(境界線より前)が幼稚園生の経験だとするならば、こっち(境界線より先)は20才以上の経験だということができます。この境界線を越えるということは精神的に大人になるということです。

でも、弟子たちがこっち側(境界線前)に戻ることを、師匠が止めることができないときもあります。それは、私の人生は私のものなんだから、もう構わないでくれ、私は創造主であるから、もう一度こっち(境界線より前)の経験をしたいから、こっちに行く、というふうに、そういうふうに弟子が言うなら、その弟子のそれは一切唯心造の気持ちなので、それ以上、師匠もどうすることもできません。

みなさんは肉体的に大人になっていますが、幼稚園生のときに、両親から干渉を受けたように、例えば、食事こうしなさい、ああしなさいというふうに両親からしつけを受けて、いまも、肉体的に拘束されるとするならば、とても窮屈だし、嫌なことでしょ?肉体的に大人になって両親から独立するように、精神的にも私が独立するということです。ですから、見性したときからが、成人の生活の始まりと言えます。

未成年者と成人の違いというのは、みなさんがよくご存じだと思います。未成年者として経験できる内容と、成人として経験できる内容というのは完全に違います。未成年者であるときには、両親からの保護もあるし、法律的な罰というのも弱いですけれど、成人になった後からは、すべてのことに自分が責任を持たなければならなくなります。精神的にも、そういうふうにならないといけません。

たとえ話として、わかりやすく話してみました。