青松さん

私はもう抜けた、自分で印可を降ろしたと思ったときがあったんですけれど、それなのに印可が降りないから、なんでなんだろうなって、浅い悟りだったのかなって、でもあのときはそう思ったんですよね。 

ミルさん その理由をおわかりですか? 

青松さん 

日々実感として一切唯心造、その状態にならないと、印可が降りないのかなと思ったんです。でも、どうもそれとは違う。肉体の習慣がある程度とれたら、印可かなと思いましたが、でもそれではないというのでわからなくなりました。 

ミルさん

5万個の考えの中から、1つの考えを抜き出して、「自覚」という名前をつけました。
この「自覚」という考えが、残りの考えを眺めています。
で、その中で1個だけに、確実に自覚というものをしてみました。 
一度だけ、それを本当に正しく見てみます。

シーソーに「考え」と「自覚」が乗っています。
「考え」というのは最初は大きいし、「自覚」っていうのは小さいんです。 
切実さをどんどん増やしていけば、この「自覚」というものは、
その切実さによって、どんどんどんどん大きくなっていきます。 

それである瞬間に「考え」と「自覚」が 5対5 になる力関係になるときがあります。でも、「自覚」の方は、だんだん大きくなっていった習慣があるので、ここで私が切実さをもうちょっと増やせば、シーソーが反対側に傾き始めます。この力関係がふっと変わったとき、つまり流れが変わったときに、そのときがまさに、見性印可文が出るときです。

そしてまた、師匠がくれる見性印可文というのは、こっち(「自覚」)をもっと下げるような役割をします

青松さん 私が体験したことは、そこじゃなかったっていうことですね。 

ミルさん

そうではありません。 

その体験ひとつひとつは小さく思えるかもしれないけれど、自分はわかった、悟ったと思われるひとつひとつ、それが積み重なって大きくなっていくんです。自分はわかったっていうのは、最初は小さいひとつだったものが、積もり積もり、積もり重なって、シーソーの流れが逆転するようになるんです。 

でも、その最後の最後の瞬間に、「わかった」って言った、その最後の瞬間に、青松さんの視線が、最後に、奪われたんですよ。なにに奪われたか、おわかりですか?

青松さん その体験に。 

ミルさん

初めは、自分が体験したことに視線を奪われて、それがもっと外側に行くと、「あ、自分は悟った」っていうところに視線が奪われる。で、ここで視線を奪われた瞬間に、「あ、でも、この体験を作り出している主人は誰なんだろうか?」。

みんな なりますよね。

ミルさん 見性というのは、状態とか現象じゃないということをお忘れになったからなんです。