師匠

では、みなさん、私はいったい誰なのか、
私は誰なのか、ということに対して、それに対する正確な答えはいった何なのか。

私というのは、

私は誰なのか、という質問の答えとして出てくるものではなくて、
私は誰なのか、という質問の答えとして出て来る「私」ではありません。
私は誰なのか、というその疑問をいったい誰がつくっていますか?

私がつくりましたよ。

考えについて、その答えを探そうと思わずに、
その考えをつくっている自分を見なさいと、私がいつも言ってるでしょ。

あなたたちは、数限りない考えを起こし、数限りない疑問を作り出しながら、
その疑問を解くことによって、その考えの答えを探すことによって、
自分をわかろうとするべきではないんです。

私は誰なのか、というふうな質問を通して、私をある定義の中に収めていくことも、
結局は、その考えの中で自分を探そうとしていることにすぎないんですよ。

誰がそんな考えをつくりましたか?

 私はこんな考えをつくることもできる、
 私はこんな疑問もつくりだすことができるんだなあ。

そういうふうにして根本的な、究極的なものに近づいていくんです。

ですから、みなさん、心の勉強においての方向性を見てください。
私はみなさんに、自覚をしなさいと言って、みなさんがどうするかを見ていましたよ。
みなさんがどんな自覚を起こすのか見守っていたんです。

でもみなさんの中に、その根源に対して、
究極的な根源に対して自覚を起こす人は、たったのひとりもいませんでした。
たったひとりであっても、その根源に対して、究極の私について自覚を起こす人がいたとするならば、それを私は感ずることができるんです。でも、みなさんが起こしている自覚は、そういう自覚ではなかったです。

「私」からまたすっと抜け出て、
私という主語が抜けた現象について自覚を起こしているんです。

 ああ、私はいま、こんなことが起こって気分が悪くなっているんだけど、
 この気分の悪くなっている、このことを、こういうふうに解決しないといけないわ。
 私が気分が悪くなっているのは、自尊心のために気分が悪くなっているんだあ。
 じゃあ、この自尊心というのは、どこから来たんだろうか。

そういうふうに自覚するのもいいですよ。

 私は夜中にずっと考えてみました、
 私はあんな話をするべきではなかったというふうに思いました。
 私はあの人に対してこんな話をするべきではなかったと思いました。
 私はあのとき、行動をもうちょっとこうするべきでした、軽率でした。

そういうふうに考えることもいいですよ。

これも結局は、私が私のことを新しく生まれ変わらせるためにしていることです。
それもいいですよ。それさえもできない人があまりにも多いから、それでもいいですよ、いいことですよ。

みなさんが一日を終えて、夜中にじっと一日を振り返りながら考えてみて、

 ああ、私はあの人にこんなことをしたけれど、ちょっと軽率だったなあ、
 あんなことをする必要はなかったのに、
 もうちょっとやさしく丁寧に言ってあげることもできたのに、

というふうに、自分を目覚めさせる、それもとてもいいことですよ。

師匠の私が、みなさんたちに、そういった自覚以上のことを願うのは、
ある面で言ったら、私の欲望、私が欲ばりであるからかもしれません。

それからまた、みなさんたちはそういった考えではなくて、そういった「行動」を起こしている自分についても、自覚を起こしたことがないんですよ。

何か起こったとしても、

 ああ、結局、私がその人を受け入れてしまった、私の責任だった、
 私がもうちょっと、その人を理解できればよかったんだ。

というふうに、自分に対して責任を向けて、
気分が悪いのが「私」だとしても、

 あんな表現をしなければよかった、

と思ったり、

 私があの人に対して、あんな悪口を言わなければよかった。

と思ったり、

いまはまだ、みなさんには、こういった自覚の方が必要かもしれませんよ。

でも、そういった自覚も重要ですけれど、もっとも根本的なことは、私自身なんです。
みなさんは自分自身に対する自覚をしないといけませんよ。

はっきりと、
私が誰なのか、私がなぜここに来て、私がなぜここに存在しているのか。

これは哲学者だけの問題ではなくて、どんな状況にいる人たちであろうとも、
ある状況や環境にいるということが問題なのではなくて、
齢が多かろうが少なかろうが、知識があろうとなかろうと、

 ああ、師匠、私はいまそんなことを考えることもいやです、
 私はいま、当面していることだけでも頭がいっぱいなのに。

いま直面している問題の方が皆さんには大きい問題ですか?

この社会の中で一番根本的なものは、いったい何でしょうか?

私自身ですよ。

私自身に対して、もっとわかろうと努力してみてください。
私は何々をしている誰々だ、ではなくて、よーくよく、見つめてみてください。

私がいつもみなさんに言うように、いま私は誰々だ、だけれど、
私はいくらでも「誰々だ」を作り出すことのできる私なんです。
みなさんは、この地上に今回、たった一回生まれてきたわけじゃないじゃないですか。
「私」は、私を、数限りなく生み出すことができるんです。

こういった私に対する自覚ひとつだけでも、
そのことについて、皆さんが完全な洞察を起こしてみるなら、それは、本当に、、

そういった洞察を起こすことができないっていうこと自体が、
なんの言葉を超えても、ただむなしいだけじゃないですか。