師匠

私は膝の手術をしたので、膝はよくなったんですけど、
この膝の痛みを2、30年持ちながら、
結石もあるので、今もその結石を持ちながら、これ痛いんですけれど、
でも、この結石の痛み、これは本当に痛いっていうこの痛みも、
私にとっては日常生活の一部になりました。

私がそういった痛みを通して感じることはなにかと言うと、
そのときは本当に痛いんですよ。
あんまりにも痛いから、こんなふうに思いました。

 私は今、結石があって痛いんだけれど、
 この痛さが私のすべてではないのに、なぜ私はこんなにも痛いのか?

それで、私は足の指を動かしてみました、でも、足の指は痛くなかったんです。
足の親指からずっと触ってみました、でも、その足の指たちは痛くなかったんです。
だから、痛いのはこの結石があるところだけが痛いんですよ。
膝の痛さもそうでした、膝だけが痛かったんです。

ああ、これは私の体の一部が痛いのであって、私が痛いんじゃないんだなあ、
そういうふうに結石の痛さが来たときに、私は別のところを意識してみたんです。
腎臓の結石の痛みが、どれほど痛いかわかるでしょ?
経験したことのない人はわからないでしょうけれど。

結石の痛みが来たとき、他の痛くない体の器官のことを思い浮かべてみたんです。
そうしたら、それほどまでに痛かった結石の痛みが、
私の体の一部の痛みにすぎないんだなあ、というふうに感じられたんです。
私が痛いんではなくて、私の体の一部が痛いんだなあ、と。

また、怒りが起こっているとき、

怒っている私もいるし、怒っていない私もいるし、
喜んでいる私もいるし、気分のいい私もいるし、気分の悪い私もいる

数多くの私がいるでしょ?

そういうとき、この私に起こっている体の一部の痛みのように、
いま私が怒っている、その怒りに陥っている私が私なのではなくて、
私の一部が怒っているんだなあ、という思いになったんです。

そうじゃないですか?

怒っている私っていうのは、私全部じゃないでしょ?
怒りだけではなく、私にはたくさんの感情があるじゃないですか。
その感情ひとつひとつが全部私なのに、
いつも私を代表する感情として、なぜその怒りの感情だけが、
私を代表したものとして出て来ないといけないんですか?

そのように、痛さは、私の体の一部が痛いんだ、と理解したように、
怒りも、私の中の一部が怒っているんだ、というふうに理解したんです。

そうしたら、自然と、私の一部になっていったんです。

怒りが湧いてきたとしても、
ああ、私の一部が怒っているんだな、とわかってきたんです。
もっと言うなら、私の腰が砕けてしまうような痛みも、私と分離させて、
私の一部にすぎないんだというふうに考えることができるのに、

しかし、一晩中痛かったとしたら、なんの考えも浮かびませんけどね、、

だからね、私がこういった例を通してみなさんに言いたいのは、
どれほどの痛みでも、私の体の一部が痛いんだ、と感じることができるように、
私の全体として見渡すことができる、ということなんです。