自分を今まで縛り付けていた考えを見つけて楽になっていくこと、その作業は自分のために続けていくことなんです。
それは楽になるための方法であって、それがみなさんに悟りをもたらすことはないんです。
何かの方法が、みなさんをなんとかできるということはないんです。
なぜかというと、結局それは、みなさんの選択にかかっているわけですから。
深い三昧に入って、なにかを経験したとしても、自分がどれだけ広がったとしても、それが自分の選択だった、という意思が持てないとしたら、自分のものにはならないんです。その状態が主体になってしまうんです。
日常の生活に帰ったら、この肉体の生活がもっと惨めに感じられるだけです。

ある理解によって、ああ、胸がすっきりしたとか、そういう理解によってみなさんが変わるわけではないんです。
結局、今まで自分をみくびっていた考え、自分の本質を見誤っていたそれに力を注いでいたことから、別の方向に力を向けることなんです。実は理解もいらないんです。今やるかの話なんです。今何をしてますか?という話なんです。
理解することも、理解できないことも私がしているんです。主人になること自体が楽しいんですよ。

「悟り」というのは、わかりやすいように、ひとつ区別しようというあれなんで、本質を変えるわけじゃないんです。
ゾルバさんの言葉で、自分も響いた言葉なんですけれど、「私たちが悟りを求めるのは、本来の自分が愛しいから、私たちは悟りへ向かうんだ」という話をされたんです。そういうわけで、悟りはどうでもいいんですよ。悟りは気にせずに、どんどん自分の中を見ていくこと、本当の自分にもっと出会うことで、もっともっと楽しくなっていくことなんです。
結局、私たちはその自由な状態を通り過ぎて、ここに来ているわけです。
だから、実はわかっているんですよ。それがあるんだということを。

お釈迦様は、世の中は苦痛だけだと、おっしゃったじゃないですか。でもそこから抜け出る涅槃というものがあるんだということをお話するんですね。で、みんなもそれができるんだと、それをわかるのは、結局みんな知っているからなんです。それができるということをみんなわかっているから、みんなそこを目指しているわけです。で、その目指し方ですが、ちんぷんかんぷんで、手探りでいろいろ苦労を重ねてきたかもしれないんですけど、それ自体はあるんだということは、みんなわかっているんです。だから、みんな悟りを求めているんですけど、実は、それは自分の中にあるんです。それは、新しい道ではなくて、私たちが通り過ぎてきた道なんです。だから、私たちはわかっていて当然なんです。ということなので、悟りに対するその心は、美しい心なんですよ。それを充分に楽しんでください。