受け容れる

2015年8月3日
昔、お釈迦さまが弟子たちと托鉢をしていた時、
一人の沙門(※註1)がお釈迦さまに法文(※註2)を説いてほしいと請いました。
お釈迦さまはその沙門に、今は托鉢する時間であり、法を説く時間ではないと答えました。
すると沙門は、お釈迦さまにもっと近づいて、
「お釈迦さま! お釈迦さまは私の生命に危険が差し迫っているのがおわかりになりませんか。
どうか私に法文を施してください」と言って、お釈迦さまを催促しました。

お釈迦さまは、その沙門が興奮しすぎているというのを知っていました。
それでお釈迦さまは彼にすぐには法を説かずに、彼の心が静かに落ち着くのを待ちました。
そしてしばらくしてお釈迦さまは、仕方なく道端に立ったままで、彼に説法をしました。

お釈迦さまの法文を聞いた彼は即座に悟りを得て、阿羅漢果(※註3)を成就しました。
彼はすぐにお釈迦さまに、出家してお釈迦さまの弟子になりたいと請い、
お釈迦さまは承諾したけれど、彼は比丘(びく)になるための袈裟と鉢盂(はつう)を準備するのだと出かけて、
残念なことに、そのまま途中で牛に踏まれて死んでしまいました。

思いもかけず沙門の死の知らせを聞いたお釈迦さまの弟子たちは、いぶかしく思いました。
お釈迦さまが「その沙門は残念なことに、前世の深い報いによって死ぬことになったけれども
刹那の間に悟りを得て、阿羅漢(※註4)になった」とおっしゃったからです。
つまり弟子たちには「どうやって、あの短い時間にたった一言二言の法文を聴いただけで悟りを得られるのか」
という疑念が生じたのです。

するとお釈迦さまはおっしゃいました。
「悟りに至るのは、法文を聞く回数とは関係がない。
たとえ一度のとても短い法文であっても、それを受け入れたという、その事実が重要なのだ。」

そうです。
悟りは法文にかかっているのではありません。 私の心にかかっているのです。




※註1
沙門(しゃもん):サンスクリット語で「つとめる人」の意。ゴータマ・ブッダとほぼ同時代に出現したインドの新たな思想家たちをいう。本来は仏教に限らず用いられたが,仏教でも出家して修行を実践する人々を沙門と称する。
※註2
法文(ほうもん):仏法を説き明かした文章。
※註3
阿羅漢果(あらかんか): 阿羅漢に到達した境地。この境地に至ると,迷いの世界を流転することなく涅槃に入ることができるとされる。
※註4
阿羅漢(あらかん): 悟りを得て人々の尊敬と供養を受ける資格を備えた人。小乗仏教では修行者の到達しうる最高の位とする。大乗では,小乗の修行者として否定的に用いる場合と,最高の修行者として肯定的に用いる場合がある。羅漢。

更新日: 2015-08-03