仏経を勉強し、道徳経を勉強し、聖書を勉強する人たちに勉強(修業)する理由を問えば・・その人たちの答えは、おそらく各者各様であるはずです。悟りを得るために修業をするという人道を会得するために修行をするという人真理を探すために修業をするという人人格を円満に磨くために修行をするという人善良に生きるために修業をするという人 等々・・実に多様な目的が、修行する人たちの口から出ることでしょう。そうであるなら、人がそのような修業の必要性と目的を持つ理由は、どこにあるでしょうか。もって生まれた運命だからでしょうか?もって生まれた宿命だからでしょうか?違います。私は悟ることができず、私は道を会得することができず、私は人格を完成できず、私は無知であり、私は善良に慣れなくて・・・このようにどんな形態においても、
私は何かができていないという不足感を、自分自身が作り、私は何かができなかったという、
自分自身が問題を作るところに、その原因があるのです。結局、人が何かを追求し、願い、渇望するわけは
自分自らが、まず不足感を作り
自分自らが、まず問題を作っているためです。
即ち、他の誰でもない自分自らが、全ての不足感と問題を作っているというのです。
このような問題たちは、仏経や道徳経や聖書が作り出したものでは、決してありません
それゆえ当然、そんな経典たちが私の問題を解決してくれるのではなく、
解決できるものでもありません。
私が作り出した、単純な私の心の問題たち、私が解決すればいいのです。八万四千大蔵経が必要ないのであり、老子の道徳経と旧約、新約聖書が、必要なのではありません。「結者解之」という言葉があります。自分が結んでおいた自分の結び目は、自分が解くのであり、自分だけが解くことができるという言葉です。私から起こったものは、私によって消えていくもの、それが道理であり、真理であるためです。
更新日:
2013-01-15 17:32:13