ある日、荘子の友、恵子(ケイシ)が訪ねてきて、
荘子と一緒に会話を交わすうち、荘子に対して、「君は無用なことばかり言っている。」
と攻撃をします。すると、荘子が恵子に言い返します。
「君は、真の無用について知っているか?
私が、話を一つ、してみよう。 或る人がこの地に立って、自分の足元の地だけが有用で、
他の地は無用だと言ったとしよう。 それで他の無用の地を、全て掘り出してしまったら、
その人はどうなるだろうか? おそらくその人の足元の地は、切り立った崖に囲まれた山頂になってしまうだろう。
すると彼が、次に踏み出せるところはどこになろう? 恵子よ。
君の言う無用とは、その実、この地のごとく、
有用のために使われるものなのだよ。」
人には、それぞれの観点と見解が存在します。
そしてお互いに意見が対立したり、意義を唱えて論争になったりして、
反目と妬みが生まれたりします。
しかし、そうした論争の裏側には、
私の考えだけが正しくて、私の行動だけが正しいという
利己的な心が潜んでいます。
他人を配慮できず、他人の考えを受容できない
閉鎖的な心がうずくまっているのです。
このような人は、まるで、荘子の逸話の
「自分の足元の地だけが有用だと主張する人」と同じです。
或る人は愚かで、或る人は賢明だろうが
或る人は愚鈍で、或る人は賢かろうが、
或る人は馬鹿で、或る人は天才だろうが、
それは、自分の踏み込んでいる足跡に過ぎないのです。
愚かな人は、愚かな位置にいるだけであり、
賢明な人は、賢明な位置にいるだけです。
愚鈍な人は、愚鈍な位置にいるだけで、
賢い人は、賢い位置にいます
馬鹿な人は、馬鹿な位置にいて、
天才は、天才の位置にいるのです。或る足跡や位置に、真理が在るわけではなく、
或る足跡や位置に、真実が在るわけではありません。
それら全ての足跡や位置は
私の経験に過ぎなく、私の選択に過ぎません。その位置に立ち止まることもでき、
どんな形の足跡も残せる私。私こそが、正に真実で真理なのです。
ですから…
世の中のすべての人が、真実であり
世の中のすべての人が、真理なのです。
更新日:
2013-01-15 17:34:03