修行に対する話 | 101CandlelightInc.

修行に対する話

1999年11月30日
皆さん、今から修行に対する話を、少しの間して過ごそうと思います。永い歳月を経た昔から、皆さんたちは道だとか、真理だとか、法だとか、悟りだというたくさんの幻想と蜃気楼を描いて、追いかけて、追求して来ました。そして、ついに私に会い、すべてのことは、私の心が作り出したということを、すべてのことは、私の中にあるということを、すべてのことは、結局、私の心次第だということを、悟りました。道を作るのは私であり、真理を作るのは私であり、法を作るのは私であり、悟りを作るのは、まさに私だという真実中の真実、真理中の真理を、会得するようになったのです。そうして、私の心のほかには、どんな真実もはかないものだということを、自覚するようになったのです。これまで私を苦しくし、これまで私を不便にしこれまで私を辛くし、これまで私にストレスを与えた、その主犯は真理でも法でも悟りでも道でもありませんでした。それはまさに、私自身だったのです。ですから私の問題は、こんなものたちが解決してくれることができるのではなくまさに、そんな問題を作った私自身だけが解決できるのでした。禅家の禅師たち、タントラの聖者たちは終始一貫して言います。心以外には、真実はない心以外で真理を探すのは、おろかなことだと。仏門で外道だというのは、えせ宗教や教理を言うのではありません。教理、戒律、理論などなど、心以外の道を言うとき、それをまさに外道だといったのです。無為法、有為法、縁起法、四聖諦、すべていいものです。しかしこのようなものたちを、誰が作ったでしょうか。このようなものたちが、なぜ必要だったのでしょうか。「直指人心」、まさに私の心を直視しなかったためでしょう。それで、このようなものたちは、私の不足な心たちを充足させるために私が作った観念にすぎないのでした。百回強調しても強調しすぎることのない言葉を、もう一回刻みつけてみます。私が引き起こした考えを見るのではなく、そんな考えを引き起こす私の心を、まず見よう。考えが作り出した観念で問題を解決するのではなく問題を作り出す私の心を自覚して、問題を解決しよう。わかったでしょう、皆さん?また出てきた話ですが・・・ある人たちが、いまだに、正法を悟らなければならない誠の道理を悟らなければならないといいます。いったい、まことの道理が何で、正法が何だというのでしょう。そんなものたちが、いつから私の生の足しになり、私の生の障害になったのでしょう。「私はなぜ、いまだに、法を悟らねばならず、道理を悟らねばならないと思っているのか。」と、考えられないのでしょう。誰が私をして、こんな考えを持つようにし、こんな決心をするようにしたのか、自覚できないのでしょうか。法ですか。道理でしょうか。私の考え一つを変えて、私の心一つを改めれば、世の中が変わり、すべてのことが簡単に解決されるものをどんな道理を悟り、どんな法を知るべきで、どんな道を会得しなければならないというのか、ほんとうにもどかしいことです。私が私の心をみるのが、なにがそんなに難解で難しいことだといってそんな多くの段階と手順を作り、その中をまたもう一度、ぐるぐる回っているのでしょうか。

更新日: 2013-01-15 17:35:27