昨日、話をしようとした内容です。
この頃、修行仲間が一人だけいなくても、話すのが嫌になるのです。
子だくさんの父母が、その息子・娘たちが集まろうとする時
地方にいたり忙しかったりして、その場所に来ることができない子供に対し
そんな寂しさを感じます。
私もこんな部分で悩んではだめでしょうか?(笑)
実際、人間の肉体に留まっていると、肉体が持つ固有な波動の
感覚と感情が、休む間もなく私を疲れさせます。
そうかといって、私一人で楽になろうとして波動を高くしてしまえば、皆さんたちとの
人間的な結び付きがなくなってしまい・・・・・
一言で言うなら、和気藹々とした時間を持てなくなるのです。
人間の肉体は、地球の重力の影響を受けています。
皆さんが睡眠中に、エーテル(生気)を吸い取って自分の肉体を
導く間、皆さんはいくらか肉体を地球の重力空間から
解放させることができますが、すぐに生気が消滅して、自分の肉体は
疲れを感じ、地球の重力によって地に横たわるようになり、
たちまち眠りに落ちるのです。
これが肉体という物質的資質の限界性です。
同じように意識にも、考えが持つ重力が存在するのです。
すなわち、集団想念という重力です。
物質が地球の重力を抜け出すためには、一定の力と速度が
必要なように・・・意識が集団想念を抜け出すためには、悟りという
超意識的状態が必要なのです。
実は、物質の重力も意識の重力も、全て自然がかけておいた催眠に
すぎないのですが・・・
無重力状態になった時、私たちの体は重力の解除により、空中に
噴き上がるのです。そうして自分の体を地に着けるためには
自分の肉体をつかんで結ぶことのできる重さの荷物と、連結リングが必要です。
宇宙飛行士が背に負っている装備は、みな、そういうものでしょう。
この法則は、意識の重力にも同じように作用します。
悟りを得て、意識の重力から解放された聖者たちの哀歓が
ここにあります。
限りなく自由な意識を、この地に留め続けられるようにする
感情という連結リングがなければ・・・
彼が現実に留まっているのは、とても難しいことです。
そのような感情を、愛・・慈悲・・・犠牲・・こんなふうに呼びますが
私には本当にイライラする言葉たちなのです・・・!
話の主題が大変逸れましたね。
とにかく、師匠がいる時にちゃんとせよという話でした(笑)
私が皆さんに繰り返しする話ですが、修行は自分のために
自分の自由のために、自分が自らせねばならないものです。
どこかの誰かが代わりにできるものではなく、どこかの誰かがもたらしてくれることのできるものではありません。
そうするためには、皆さんたち自らが、修行に対する正しい見解を
持たなければなりません。
皆さんが悟りを得る前までは、もちろん修行が必要です。
その修行はほかでもない、心を開いておくことです。
皆さんの心が閉じている状態では、それこそなんにも
起こるはずがないのです。
全ての心が断絶された状態で、果して何が起こるでしょうか?
心を開いておくという修行は、決して難しいことではありません。
もちろん簡単でもありません。いえ、ある時には、死ぬよりももっと苦しいことかもしれません。
どれほど大変なら、「一心を守ることが死ぬより難しい」と言うでしょうか・・・
その上、思考の転換とは、心を広々と開いておくとは、ほとんど不可能な
ことでありもするのです。
まさに修行とは、このような自分の心を開いておくことです。
皆さんが、ある一つの感情に陥っているなら
皆さんが、ある一つの考えに偏っているなら
皆さんの心は、それらが入ることのできるほど十分に開かれていないことを
伝えているのです。
しかし、このようなものが全て、誰によって存在しているのでしょうか?
そのようなものが、自ら存在することができるでしょうか?
そのようなものに実体性を付与しているのが、自分ではなくて、他の誰がいるでしょうか?
心の門も・・・心の障害も・・・全て皆さんたちが
作り出しているのです・・・
皆さん?
まず、心の門を開いておきましょう。
全てのものが往来できるように許容しましょう。
そうして心の門が、もうこれ以上、門としての意味がない時
相対性とか二元的とかいう夢から解放されるのでのであり、
心の重力から抜け出るのです。
これがまさに、「大道無門」の真正な意味であるのです。
悟るための唯一なる修行方式は、これです。
今では「どのようにすれば悟れるでしょうか?」と私に問う前に
この門をしっかり通って来るように願います。
皆さん?
「大道無門」が、すなわち悟りへと行く神秘の門なのです!
更新日:
2013-06-12 16:01:25