現在のこの物質世界が、多くの人の共通した確固たる信念からなる世界だとしたら
死後の世界は、個人的な確固たる信念からなる世界だと言えます。 もちろんこのような個人的な信念は、生前の物質界に対する印象と経験を通してできあがったものですから
それがそのまま死後の世界に反映され、踏襲する過程の形で現れるようになるのですが
私たちはこのような事実を通じて、次のような結論を下すことができます。 それは、「私の他に真実はない」というものです。
共通した信念が作った物質界であろうと、個人の信念が作った霊的世界であろうと
こうした世界がみな、私の信念によってできたからです。 ですからこの世には何の問題もなく、あの世にも何の問題もないのであり
この世とあの世を指して、夢だ現実だ、幻想だ実在だ、と規定する必要もなく
虚像だ 実像だと区分する必要もないのです。 なぜ、そうでしょうか。
このようなものはみな、私が願って、私によって、
私の選択によって存在している世界たちだからです。
このような真実を自覚した人は、決して世の中を迷妄だと責めることもなく
世の中を幻影だと否定することもしません。 絵を描く上で用いる素材は
それがどのような絵かという、絵のジャンルによってさまざまです。
例えば、水彩画、風景画、墨絵、人物画、抽象画などは、描く技法がそれぞれ違うので
土台として使う紙や絵具などの素材が異なります。 そうして、それらたくさんの絵と作品が誕生することになり
絵の世界、作品の世界というものが存在することになるのですが…
何より大事なのは
このような絵に考えの世界を繰り広げ出した、画家の心なのです。 それがたとえ自然と、事物、人物など、対象をそのまま描写した絵であったとしても
そのような対象を眺めて感じている私の感情と考えを表現したものが
まさしく絵であるからです。 肉体を持っているこの世と、霊魂を持っているあの世の共通点は何でしょうか。
二つの世界、どちらも絵の世界だということです。 そうであるなら二つの世界の違いはどこにあるでしょう。
それはただ、描き出す土台の素材が違うだけで
二つとも絵であることには変わりがありません。
一つは、物質の素材で作られたこの世という絵の世界、
他の一つは、考えの素材で作られたあの世という絵の世界です。 物質と精神という土台と素材の違いは、どこにあるでしょうか。
前も言ったように、物質は精神の最も不自然な形であり
精神は物質のもっとも自然な形であるだけで
物質と精神の根本には、なんらの差異もありません。 言い換えれば、時間的な状態と形態の違いのみがあるだけで、
水において気体、液体、固体は「成分は一つだけれども、
ただ状態と形態において、そのように分類される」ように、です。 今私は、この世とあの世を行き来しながら芸術活動をしているのです。
この世では物質を土台に、物質を素材にした作品活動をしており、
あの世に行ってからは考えを土台に、考えの素材でした作品活動をしているのです。
そうです。 私は画家であり、作家なのです。 物質界、精神界、霊界にわたって数多くのジャンルの芸術の世界があります。
そして私はあらゆる場所で、さまざまな芸術を繰り広げています。
全てみな、私の作品活動によって存在するようになった世界であり、
存在できたのであり、存在しているのです。
私はこのように存在の状態を変える過程を繰り返しながら、作品活動を行ってきたのです。 けれども私は、私が作った芸術にあまりにも心酔しすぎて
自分自身がその全ての作品を創造した画家であり、作家であるという事実を忘却したまま
私の描いた絵に、私の作った作品に夢中になって、正気を失ってしまったのです。 そうして、私が描いた絵の世界が私の現実になってしまい
私が作った作品の世界が私の現実になってしまいました。
そして今までも、このような混乱が継続されている現実の中に生きているのです。 ほんとうの私の現実とは何でしょうか
それは、私によって描かれて作られた絵と作品が現実なのではなくて
描き出して作り出した作家であり画家である私が、まさに現実なのです。
つまり現実を創造している私こそが、まさに永遠なる現実だというのです。 人は、真実が私が作った作品の中にあると思っています。
そうして作品の中で真実を探そうとし、作品を真実だと言い、
私が作った考えに真実を探そうとして、私が作った概念を真実だと主張します。 しかし、いつもそうであるように、真実は私です。
真実を作り出している私がまさしく真実なのです。
真実は固定されたものではありません。
私が変わるので、真実は変わり得えます。
私が成長するために、真実は成長できるのです。 そして現在私は、存在のよりよい状態で、また別の作品活動を経験してみるために
自覚を通した成長を繰り返しているのです。
成長した真実を味わいたくて、です。 これを自覚した賢明な人は
私によって生まれ出た有と無という土台の根本を問題視せず、
私によってできた物質と精神という土台の素材を問い詰めはせずに、
私によって創造された色と空という絵の具の種類を区分づけはしません。
みな全て、私によって、私の必要と選択によって、そのようなものたちは作られたことを知っているためです。 紙に絵をどっさり描いておいて、その上に鉛筆や絵の具を黒く塗ってから、
「自分が描いた絵は、ない(無)」と否定する人がいます。
その人は言います。
「これを見よ! 少し前に描かれていた絵はなくなった。
したがって、全ての絵は消えてしまう幻想である。」
紙を破ってしまった人もいます。
そうしては、このように語ります。
「紙は消えた。
絵は存在するのではない。
そうであるので、私は無であり、無我なのだ。」 彼らはいまだ、紙と絵の世界をきちんと理解できずにいます。
彼らは依然として紙と絵に縛られて
エゴの消滅、真我、無我という言葉を言っているけれど
紙と絵にはなんら問題はないのです。 なぜ、そうでしょうか。
私が画家であるからです。
全ての絵の道具を創造して、絵を計画して
絵の内容を支配できる
絵の主体である画家は、まさに私であるためなのです。
更新日:
2017-05-07