世の中にはたくさんの差別相が存在します。時代が違い、人種が違い、言語が違い、環境が違います。それぞれの容貌が違い、性格が違います。身分と位が違い、所有が違います。そして現在置かれている状況が違います。しかしこれらの違いの中で、これらの差別相の中で、全ての人が等しく、公正に与えて貰った真理があります。それは「私に主権がある」ということです。私の心の主権です。ですからたとえ私が、今世のどんな比較と差別の中にいるとしても、私の主権は、他の何物にも比べられなくて差別できない、独自で固有な、私だけの権限なのです。私はいつでも自由に、そのような私の主権を行使することができます。それ故、全てが私の心持ち次第にかかっているという私の主権を行使するとき、私はどのような比較と差別にも帰属されません。世の中に数え切れない二律背反と不合理があるとしても、一切唯心造という私の主権を行使するとき、それらの二律背反と不合理すらその当為性を失ってしまいます。私が主権を持っているから世の中には何の問題もありません。私が主権を行使するとき何も問題になりません。勉強も違わないです。たくさん学んだ人、学んでない人、知識が多い人、知識が少ない人、賢い人、賢くない人、すばしこい人、鈍い人の差があるとしても私の心の主権を行使することは、あまりにも容易くて単純な知識と理解で十分なわけです。単純な知識と理解が自覚に繋がるとき、私は成長することができます。難しい知識と理解を持ったとしても、それが自覚に繋がらないとしたら、私は決して成長を成し遂げたわけではありません。勉強は、全ての人が、誰でもできる容易いことです。決して難しい知識と理解が必要ではありません。世の中にたくさんの差別相と二律背反と不合理があるとしても、このように世の中は実に公正で公平なところです。その理由は私に主権があるためです。(この文章は、2013年5月3日に書かれたものです)
更新日:
2017-05-27