釈迦牟尼は、雪山での7年間の苦行を終えて下山し
菩提樹の下で初めての悟りを得たのち、四十日間、沈黙したと云われています。お釈迦さまのこの四十日間の沈黙は、何を意味するのでしょうか。インドは古代から、宗教に関する多くの仮説を持っていた国です。
唯一神について、修行について、悟りについて . . .
数限りなくたくさんの話が伝えられてきました。 さまざまな経典に多様な求道の方法が網羅されていて
たくさんの修行の道が提示されていました。釈迦牟尼も初めは、やはり伝えられた伝統の方法によって苦行の道を歩み
修行の助言を得ようと、多くの師匠を探し回ることになりました。けれどもそのような過程を経て、ついに悟りへと到達したとき
お釈迦さまはしばらく混乱し、考えを整理しなければなりませんでした。なぜなら悟ってみたら
すべてにおいてあまりにも意外な、全く予想しなかったことが起きたからです。これはいったいどうしたことか . . .すべての人々、そして私も、悟りは外に求められる何かだと思っていた。
しかし悟りは、外にあるその何か、ではなかった。
決して外に求められるものではなかった。私は今まで、それを外側で得ようと探し求めた。
しかしそれは、みな私の錯覚だったということがわかった。悟りは私の心の中にあったのだ。
いったいこの真実を
人々にどのように理解させ、説明してあげることができるだろうか。後日、釈迦牟尼の法統を受け継いだ迦葉もやはり
悟ってからお釈迦さまと同じジレンマに陥りました。
迦葉がお釈迦さまに助言を求めると、お釈迦さまは迦葉にこう言います。「世の中で人を教えることほど困難な仕事はない
お前は待って見守らなければならない
まるで山の上に登った人が 山の下の人々を見降ろすように」悟りは個人的な事件です。
私から私へと赴く、私による、私の出来事です。 このような理由で、神もお釈迦さまも、またどんな師匠も
私に悟りを持ってきてくれることはできません。
それは他人の出来事ではなく、まさに私の出来事だからです。 ですから、悟らせてあげることができ、悟りを伝えてあげることができる
と言う師匠は、偽(にせ)の師匠です。 「 “このわたくし”を通してこそ悟りに至ることができる」と教える師匠がいたら
彼は大嘘つきの師匠です。山の頂上に達した者は、山の下にいる人々、また山を登っている人々が
自分と決して違わないことを知っています。彼らがいつか、自分と同じように山頂に到達することを知っています。
彼ができるのは、ただ待って見守ることです。私の旅程がそうであったように
彼らの旅程もまた、そうであるので . . .(この文章は、2015年09月23日に書かれたものです)
更新日:
2017-06-11