以前からいつも話しているように、人間は実は覚醒しているぶんだけ生きているといっても過言ではありません。生と死の間の違いは、覚醒していること、つまり自覚と没自覚にあるのです。ただ息をしているからといって、ただ心臓が動いているからといって、生きているとは言えないのです。繰り返し言ったように、私たちが生きて息をしている肉体の生で学ぶべきことは、ただひたすら、覚醒していること、つまり自覚だけです。覚醒している生のみが、生としての価値があるのです。自覚の生のみが真の生であることを、深く洞察してみなければなりません。そのためいつでも、私がする全ての行為を見守る努力が必要です。心の中で絶えず起こる邪念、私の精神を根こそぎ奪っていく欲望、話して、飲んで、食べる行為、などなど。私に起きるすべてのことを、見守る機会とすることが重要です。このように、機械的に食べて、飲んで、考えて、行動することから脱皮して、覚醒している状態で、このようなすべての行為を観察することも、自覚瞑想の一つの方法です。今まで、そして今この瞬間にも、どれほど多くのことを私が見逃して生きて来たかを、一度深く自覚してみてください。現在の私が、不満足を感じて不幸だと思うのは、私がすなわち、自覚のない無意識な状態の生を生きているということを意味するものです。言い換えれば私たちは、自分が何をやっているか、何を考えて、感じているのか、自覚できないために不幸だというのです。どこへ行っても、絶えず自覚する習慣をつけてみてください。日常で仕事をする時も、絶えず自覚してみてください。食べる時食べている自分を自覚してみて、歩く時歩いている自分を自覚してみて、聞いて話す時聞いて話している私自身を自覚し、怒る時も怒っている私を自覚します。憤怒が起きたまさにその瞬間、自分が激昂していることを見抜くのです。瞬間瞬間こんなふうに目覚めていようと努力をする時、私の中に中心が徐々に現れ始めて、すべてのことが透明に見え、水晶のように澄んでいくようになります。自覚が私の意識の中心に、すっくと座を占めるようになるのです。私は自覚体になるのであり、自覚体になる時、私は、私自身はもちろん世の中に対するすべての理解と許容と包容を得るようになります。そしてその時がまさに、私自身についての完璧な自由を満喫するようになる時でもあります。自覚は私を、真の自由へと至らしめるのです。(この文章は2014年05月11日に書かれたものです)
更新日:
2017-12-31