孔子 曰く | 101CandlelightInc.

孔子 曰く

2018年2月25日
孔子は
「儒教は慰めの学問ではなく、省察の学問だ」と言いました。真の勉強は人を眠らせるものではなく、目覚めさせるものです。
私たちの周囲には、さまざまな慰めの手が届いています。それは信仰心という形で、鎮痛剤の役割をしていたり
時に宗教的な形に変質されて、人々にまた一つの足かせを嵌めたりもしています。このようなことが起きるわけを
孔子は「私を省察できないためだ」と言いました。目の前に広がった事態を、正確に客観的に見ることのできない理由も
自らの心持ちと偏見によって、とても狭い道の中で、私を投影して見ているためだと。そして、人間のあらゆる不幸と傷は、ここから出発している
自己中心性の強い人ほど、より大きな傷を作り出すのだと諭しました。老子と荘子は
省察を通して悟りに至る道で「世の中の苦しみは、すべてみな私の心から始まるのだから
坐忘、すなわち私を捨てることが最上の策だ」と言いました。じつはこの言葉を究極的に行ったならば、根本的な解決策になり得ます。
しかし、世俗の人々にとって私を捨てるという言葉は月や太陽まで歩き続け、いつ到達するともしれない道を行くほどに
遥か遠くの話に聞こえることでしょう。私を忘れて私を捨てる . . . それはまるで
今ようやく這いはじめた赤ちゃんに君は人間なんだから今すぐに歩き回ることもできるんだ
と言うのと同じくらい非現実的な話です。これに対して孔子は
大衆により現実的な方法を提示しながら近づいたのです。孔子は
「問題の中心には、自分がいる」としながら人間は誰でも傷を受けるが、そのわけは頑固さのためだと話しました。
頑固さとは、固執と偏見であると。私たちは自分の不幸と苦痛の原因についての矛先を
外部や環境に向けますが君子は、自分に起こるすべての結果に対する責任を、
自分に因るものだと自らへ差し向けるのだと説いています。孔子は自覚の又の名である省察について語っています。私自身を観る自覚それが、孔子のいう省察の真の意味なのです。(この文章は2013年12月17日に書かれたものです)

更新日: 2018-02-25