現象には、なんの問題もありません

1999年11月30日
人は余裕があって健康なときは、心の幅が広がります。
ここでいう「心の幅が広いこと」とは、「受容」を意味します。

しかし体が痛いとか、状況が何かよくないとき、人は敏感になります。
些細なことにも気になり、いらだちます。

これはそれだけ、ある一方に偏っているということです。

しかしこのような現象は、本質的なことではなく、ひとつの作用にすぎません。
すべてのことは、「私の状況」によって作られるという話をしようというのです。

同じ事に向き合ったとしても、私の状態がいいときには受け入れられますが、
私の状態がよくなければ、狭い視角を持っていらだつかもしれません。

すなわち私の体が痛いとき、その現象は好ましくなく私に迫ってきますが、
健康なときにはそのような現象を認識できないかもしれません。

ですから現象自体には、なんの問題もありません。

今の不健康な状態で感じる痛みは、実際に私に存在しますが、
健康なときには、そんな痛みは存在しません。

私が健康になれば、そんな痛みはなくなります。

同じように、今みなさんに起こっているすべての現象は、
自分が留まっている状況の中で経験しているのです。

皆さんが変われば、自分が経験している現象や
留まっている状況も共に変化するのです。

ここでわかるのは, 湧いてくる考えが重要なのではないということです。

私の状態が一番重要です。
私が留まっている状況が重要だというのです。

「痛い」という考えを変えたからといって痛い状態がよくなるでしょうか?

他の時だったら受け流せる些細なことにもいらだってしまいます。.
些細な事たちが変わってよくなるからといって、

私の状況がよくなりはしません。

私が自ら癒すしかないのです。
私がそのような現象たちを受容できる

健康な状態に行くしかないというのです。

これは重要な話です。

もう一度言うなら、対象には何の問題もありません。
私自身の状況が変われば、問題がなくなるのです。

ある人が「この世は不可思議な何かで満ちている。」と言うなら、
不可思議な何かで満ちているその人の状況が変われば、

その不可思議は消えます。

ですから外部の対象が重要なのではありません。
外的な影響は、まったく重要ではありません。

今この時点で、肉体が健康で、私の心に余裕があるなら、
どんなことも寛容に対することができます。

つまりある考えや観点が重要なのではなく、
それを作り出す私の状態が最も重要だということです。

今している話が、大層逆説的に聞こえるでしょうが、これは事実です。

重要なのは、「すべての事を認識している主人は私自身」だという事実です。
私の主権は外にあるのではなく、私が持っているのです。

外の対象が何と言おうと、私がそれに対してまったく拘らなければ、
「砲弾が爆発し、天地が開き始め、肉身が消えてなくなる」状況が来たとしても、

その意識の状態にはどんなものも侵犯できません。

外的な要素には、どんな価値や意味もないということです。

私がそんなことたちに対して、まったく拘らなければ
なんともないということです。

ですから、この全てのことが、いかに主観的な経験でしょうか?
私が簡単な例をとって話しましたが、これは事実です。

そういうわけで、この教えの大切な結論は、結局「私」に帰結されます。

全てのことには、私しかありません。

私を成長・成熟させ続け、変化させて、
結局何ものにも影響を受けない状態まで行くのです。

更新日: 2013-01-15 16:59:23