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主人は私 - 1

主人は私 - 1

1999年11月30日
私たちは修業というのは何かを学ばなければならず、何かを探し回らなければならず、
私たちがある教えを受けなければならないと考えたのですが、
実は今まで皆さんたちが・・今ここで多くの方々が共感できるでしょうが、
自分自身以外に学ぶものはないのです、皆さん。


そして・・
このすべてのものが・・私があって存在するのであり、
私がいなければ存在できるものは、何もないでしょう?


それなら、まず、何か修業を追い求め、真理を追い求め、悟りを追い求める前に、
そんなものを追い求めている「私」について学ぶということが、どれほどあたりまえな話でしょうか?


私を知らずにどうやって
修業や真理を捜し求め、どんな師や神や仏を捜し求めるというのですか、みなさん。
そんなものを捜し求めている私自身を見ることが最も基本的な修業ではないですか?
それで、もともと私を捜す修業をしなければならないのです。


私たちがいつも何か・・自分が足りないと感じ、
いつも自分が何か弱々しい存在だと考えたために
自分自らをそのように定めておいて、今までもっと偉大な何かを捜しまわったでしょう、みなさん。


私たちが今修業をするといえば、多くの人々がどんな考えをするかといえば
どこか静かな寺に行き世の中に背を向けて
自分の全身全霊をもって参禅をして座禅を組み
何かを得れば成るものがあると思うのですが、


それをみなさんが、静かに一度考えてみてください。
真理が山にあるでしょうか?
でなければ、ヒマラヤの頂上やどこかにあるでしょうか?
神聖などこかの場所にあるでしょうか?


多くの人たちは修業をするんだと
とお〜く離れたヒマラヤに行き、チベットに行き、インドに行きますが、 


そこにも同じように空気があり、
ここと同じように人々がいて、
同じように木と、同じように自然環境があるのです。
修業というのは、そんな環境がもたらすものではないのです。


それにみなさんに度々話しましたが、
それほど偉大な師がいて、
ある救世主たちが現れて、
今まで、地球上に救いを受けたという人たちがいますか?
私たちがお釈迦さまとイエスさまに侍りますが、
彼らから救いを受けた人がいるでしょうか?
その当時、その人たちを認めた人は、誰もいませんでした。


ただ、その人々の教えが残って
その教えに対して自分で研究してみた人が
あ!この教えというものに対して
私は共感をし、これはほんとうに間違いのない真理だったということを感じ取ったので
数千年の間、人が繋がってきたのです。
そうであるなら、数千年間なんのために繋がってきたのでしょう?
その人の字や文字に何かあったのでしょうか?


そうではなく、それを、自分が受け入れることのできた心にあったというのです。
それでその心を通して、あ!これを私が受け入れたために
私の中で・・その心の中で
真理が成され、悟りが成され、そこで釈迦が形成されるのです。


ところが人々を見ると・・何か修業をするというと・・
はじめは皆さんもそうだったじゃないですか。
なぜこんなふうに・・先生とあちこちまわると、こんなふうに遊び、食べることばかりするんだろう。


なぜならば
真理がすでに皆さん自身であり
師はすでに皆さん自身であり
悟りはすでに皆さんたちの心の中にあるのに


皆さんを一緒に連れてまわること自体が
真理と共に行くのであり
悟りと共に行くのであり
神たちと共に行くのであるのに
どんな修業を、また別に探すというのですか。
そして、どんな釈迦を探し、どんな仏の顔かたちを探し、どんな神を探すというのですか。皆さん。


それで人々は、いつもそれを厳粛なところで探し、敬虔なところで探し、何かを捜すのですが
それも、そんなふうにそれを受け入れて、私がそれをそのように認めている、私の心の中にあるのであって
神聖というのものがどこか・・・他にあるでしょうか?


私の心がなければ神聖さがどこにあり
私の心がなければ汚らわしさというものが・・そんなものがどこにあるのかというのです、皆さん。
それで、私は皆さんたちと一緒にいること自体が、いつも修業だと思うのです。


皆さんたちが成熟すれば、 皆さんたちの中で、すでにそこが仏であり、
皆さんたちが成熟すれば、 皆さんが神であるのに・・・
皆さんたちは 神だというのです。私の 立場から見るなら、 皆さんたちは、とにかく神です。
本人たち自らが、身分を認めないだけのことです。


ですから、私は、皆さんたちとまわるのは、神とまわっているのであり、
皆さんたちの 心が悟れば、その悟りはいつも皆さんと共にあるのです。
ですから、 皆さんたちを除いた修業がとこにあるのか、というのです。      


そうですから、私たちはこのように共に存在することが修業です。
既に皆さんたちの中に、全て含まれているために、そうなのです。
真理も悟りも師も神も仏も・・・


ただ皆さんが、まだ何かもどかしく
何かがまだ、もっとしなければならないようで
皆さんが、何かについて確信がないというのは


その確信とか、その信仰とか、その真実が他にあるのではなくて
そのようにそれに対して不信を持っており
それに対して偽者だと思っており
それに対して信じられずにいる自分の心の中に問題があるのであって
他のところを探す必要がありません。
ですから皆さんの宝探しは、皆さん自身が作っているのです。


そうであるなら、皆さんの宝がどこにあるでしょうか?
それは当然、皆さんたちの心の中にあるでしょう。
皆さんたちの心を離れた宝が、どこにあるのかというのです。


この世でもーっとも偉大な聖所は皆さんの心であり
最も偉大な宮殿も皆さんの心の中にあると、そうだったじゃないですか。



それで、このように共にいて、それについて共感を感じていることが、ほんとうの修業なのです。
私たちがスキーに乗ろうが、何をしようが
このように交わっている、このこと自体が・・・
これがほとんど神の出会いなのです。
ここに座って座禅や、また他の何かをすることは
これは自分の、ある・・・豊かさを享受する生のひとつの方法にすぎないのです。そうでしょう?


そうであるので、最も根本的な趣旨は
既に皆さんたちの中にぜーんぶあって・・
皆さんたちが、既に完璧にその中に全て持っている、完璧な存在だというのです。
当然、皆さんたち自体は、主人だというのです。全てのことの主人です。
ある修業を設定しておいて、皆さんたちがその修業の奴隷となり、
修業が皆さんの上にあるというのは、話になりません。


仏もそうですし、神も同じです。
皆さんの上に存在できるものは、何もないのです、実際は。
それも皆さんの心です。
崇める心も、尊敬心も神性さも、全て皆さんたちが作っておいて
ただ、皆さんたちが自ら作っておいた皆さんの偶像に皆さんが騙されているだけだというのです。


それらが先に、自分が神聖さだといいますか?自分が先に、神秘だといいますか?
それらは話すことができません。
神秘が、自分は神秘だと話をしますか?自分が神聖さだと話をしますか? 
全て、私たちがそこに貼り付けてあげたものだというのです。皆さんが・・
神々しさだ、神秘だ、真理だ、仏だ、神聖だというぐあいに。


それらは、皆さんたちが作り出した概念です。
皆さんたちが作り出した概念を、皆さんが作っておいて、それに、偶像に溺れているのです。


師匠という存在は、これを知らせてあげるのです。
師匠と皆さんとも、別個です。
皆さんは既に、全て師匠だというのです、実際は。
この共感をするために、このようにいるのだというのです。


ですから、いつも言うことですが、この時間以後に・・
この時間以後には、皆さんたちの上に君臨できる、そんなものを作っておかないでください。
既に皆さんたちが君臨しておいて、それを皆さんたちの付属物として使わなければならないのです。


神であろうと、仏であろうと、何であろうと!
人が作り出した無数の概念たちを通して、皆さんたちが成熟して成長するのが真理で、
自分が作っておいた一つの偶像に・・心の中に偶像を作っておいて
そこに敬礼をし、そこに賞賛を送り、驚嘆を送り・・
光だ、愛だ、何かこんなふうに言葉を作っておいて・・かっこよく・・
そして、そこに対して騙されることが、いかに愚かなふるまいでしょうか?


この世に自分を排除した神秘というものもなく・・
自分のように偉大な神秘がありません。
結局、神秘というものも自分の心の中にあり
自分が探そうとしてみてごらんなさい。
神秘さが出続けるところがどこですか?他のところから出てきますか? ちがうでしょう。
感じているのは、自分ではないですか、皆さん?
自分の心で神秘を感じ続けているように
自分の心の中に、全ての宝庫がみんなあるのです。

更新日: 2013-01-15 16:59:17