最終更新日:2017年4月9日
その日が来るときまで
中国の趙州禅師の話です。
当時、禅仏教を侮った一人の儒学者が禅師を訪れ、このように言いました。
「和尚 お釈迦様は、衆生の願いをすべて聞き入れてくださったというではありませんか」
「そうだ」
「私はいま、和尚の柱杖子(禅師たちが座禅や説法をするときに使う杖)が欲しいのですが、私にくださいますか」
「君子は他人のものを欲しがるものではない」
「私は君子ではありません」
「私も釈迦ではないよ」
悟った者、知っている者、釈迦という我相からも自由であった
趙州禅師の禅智がしのばれるくだりです。
私に対して痛烈に省察する人は、
わかったことを、わかったということに閉じ込めず
私の理解に留まりもせず、感じた内容を掴みもしません。
なぜなら、こうしたものたちは相変わらず、私という我相に固執した
私が呼び寄せている現象にすぎないからです。
そして私が相変わらず我相に固執している理由は
私の本性、私のアイデンティティーを、
いまだ自覚できずに、悟れていないがためです。
我相とは何でしょうか. . .
現在の私、いまの私だけが、私だ、という錯覚と固執です。
私は誰なのか. . .?
疑問をつくり、疑問の中にいる私について、規定を探し出しなさいと言っているのではありません。
疑問をつくって規定をしようとする、その私について、
いま一度、自覚するのです。
このように、私を知ろうとする努力. . . 不断の努力が
私を明るくし続けてくれ、明るくしていくことなのです。
目を閉じて手探りする過程で
私はわかっていると言い、理解していると言い、感じていると言うようになります。
けれどもこれは、私をわかっていく過程にすぎないので
ここに決して安住しないことを願います。
ほんとうの私自身について、目が開くようになれば
以前、目を閉じ手探りしながら想像し推測していた、すべての
考えの世界が、煙のように消えていきます。
ほんとうに水の泡がごとく. . .
それはまるで
長い闇の夜が閉じて、新しい日が明け来たかのようです。
その日が来るときまで. . .
私に対する自覚を、怠けることも留まることも、
なさってはいけません。