閉じる

主人は私 - 2

主人は私 - 2

1999年11月30日
では、能力を修練して・・・
そんな能力が他のところで与えられるでしょうか?
そうではありません。
自分が成長していきながら、能力が生まれるのです。
それも結局は、自分の中から、湧き出るのです。
他のところから何か入ってくるものは、何もないというのです。


神でも何でも・・光がピカッと現れたとか、何かをしたとか言っても
自分がほんとうに探そうとして、そんな心があるので、
それを呼び入れたのです。
呼び入れて、結局は、その呼び入れが自分の中で消化されていって、
自分が花咲くのです。
そんな、何か神々しいものがあるというのです。
光があって何かピカピカしたのだけれど
それは、自分が受け入れて自分が成熟することなのであり
その光が入って来て、
光が私たちの体と離れて動きはしないではないですか。


真理が私たちと離れて動くのではなく、
悟りが私たちと離れて動くのではないでしょう、皆さん。
全て私たちの中に入って来たので、
私たちが成熟し、成長したのではないですか。
ですから、自分ほど偉大なものがどこにあるでしょうか、うん?
全ての道は、自分に通じるものなのです。


それで、いまや皆さんは、いつも主人でなければならないのです。
教えるというのは、このように成熟することなのです。
そこに完全に共感できることが悟りであると、
私が言ったではないですか。


この世で全ての・・
悟りを得たという聖者たちが話す、共通点を見てください、皆さん。
彼らは絶対に、彼らの上に神を君臨させず、
彼らの上に仏を君臨させません。
その悟った人たちの共通点を見るなら、
いつも自分は主人だというところです。


そうであるなら、皆さんたちはそういう存在だというのです。
「ああ・・私のようなとるに足りない存在が・・」
私のように学がないとか、どうだとか・・
しかし、学がないとか、とるに足らないとか、どうだということを、
それら自体が、そのように話すことができるかというのです。
自分でそれを、また作っておいて、
自分がまた、それを受け入れるではないですか。なんでも。


自分自身に対して完全な主人になれば、
まさにそれが、自分が神様になることなのです。
そうではないですか?その心。
私が全てのことを許容して包容して受容できるという、その心に
それより、もっと大きくて偉大な心がどこにあるでしょうか。
神様が私を裏切っても、私が神様を受容するといえば
その心は、神様より、もっと大きいのではありませんか、皆さん?
そしてその心は、他のところにあるのではなく、
自分の心の中にあるのではないですか?


それで・・
どこかに行って何をしようとも、いつも、皆さんたちが考えることは
修業であろうが、何だろうが、何であろうが、
私の上に何かを置かないでください。
何度も話しますが、私はほ〜んとうに味わいのある言葉が
十戒で「私の上に他の神を敬ってはいけない」というとき
「私」というのは神様ではなく、キリスト教の神様ではなく、
皆さん自身だというのです。
皆さん自身の上に、他の神を敬う必要がないのです。


他の偶像を持つ必要がありません。
そんな偶像は、結局その偶像の親は、皆さんたちなのです。
偶像が、自ら存在できるでしょうか?
皆さんが偶像を作っておくので、偶像が存在するのです。
ここで言う、その全ての偶像というのは、そんなものです。
皆さんが作っておいた偶像があるではありませんか。
真理だ、悟りだ、修業だ、何か深刻さだとか・・
何か光だ、愛だ、エネルギーだ・・・


そうでしょう?
この頃見てみると、
そんなにも多くの人たちが、そんなものを追いかけています。
和尚さんたちもそうだし、宗教人たちもそうであり・・
み〜んな自分の中に偶像を作っておいて、祈るのです。


そんな時間があるなら、皆さん、鏡を見て、
その鏡の中にいる自分自身に、祈ってください。
そうすれば、結局、その祈る心が、自分に来るはずです。
それを意識できないのであれば、鏡の前に座って修道してください。
座って、その、なんとか、面壁修道?
とんでもありません。面壁修道よりは・・・
学識ある言葉で、鏡に何か言ったらいいでしょう?
あ〜!面鏡修道をしてください。面鏡修道・・
それがよ〜っぽど、
すじにかなって、常識的で、しかるべきことだというのです。


それで私は、皆さんとまわりながら、何を感じるかというと・・
神性たちと一緒にまわっているのを感じるのです。こんなふうに・・
皆さんたちには、雲をつかむような話に聞こえるでしょうが
皆さんと移動するとき、そのような、あるものを感じるのです、私は。
神たちが一緒に動くのを感じるというのです。
なぜか?皆さんたちが、その偉大な神なのですから・・
皆さんの中にみ〜んな入っているのに・・
何をもっと探すというのですか。.
ですから、皆さんたちと行動すれば、それが私には完璧なのです。
神たちと共ににいるのであり・・仏たちと共にいるのであり
悟り、真理と全て共にいるのです。
皆さんたちの中に全てあるではないですか。
ですから、皆さんだけを連れて行けば、
皆さんの中に悟り、真理、神性など、全てあるので・・
もうそれ以上、どこに行って何の修業をするというのですか。


そうではないですか、皆さん?
常識的で合理的でなければなりません..うん?


自信感を持つ前に、
自身感を自分が妨害している、
そのことを、まず、よく見ることが修行なのです、皆さん。
修行というのは、
皆さんたちを妨害して拘束している、
その要素を見ることなのです。
修行を、他にする必要がありません。
なぜ自分自らが、自分をそのように拘束して、限界を作り
しょっちゅう、このように、私はこうで、ああで・・
なぜ、こんな不平不満を創造するのかというのです。


不平不満を創造しておいては、
そこに満足という蜃気楼を探してあるくのが皆さんではないですか。
私自らがバカだというので、
私は学ばなければならないということが出てくるのではありませんか。
なぜ自分を、そのようにバカ者に作るのかというのです、皆さん。
それでは、いいです。自分がバカであるなら賢くなるのも自分でしょう・・
なぜ、賢くなるのがひとつの宗教になり、ひとつの偶像になって・・・
賢くなるのなら、私が賢くなるのです。
宗教が賢くなり、仏が賢くなり
何か・・聖職者が賢くなるのではないでしょう・・


結局、賢くなるのもまた、私ではないですか、皆さん。
全てのことは、私から始まり、私で終わり、
すべてのことは、私に帰結されるのです。
ですから私ほど大切で、私ほど偉大なものがどこにあるでしょうか・・


私がい〜つも、皆さんに話しますが
私たちは、錠前を作っておいて、鍵を探すのですが
ほんとうの鍵は、錠前を開けられる鍵ではなく
錠前という幻想が砕けることなのです。
その錠前ということが
幻想だったとわかるのが、ほんとうの鍵だというのです。


では、何がうまくいくことなのでしょう・・
うまくいかなかったという、
その虚像が砕けるのがうまくいくことなのです。


同じように、何が終わりなのか・・
始まりの虚像を見るのが、終わりです・・皆さん。


すなわち、これが何を意味するのかといえば
す〜べて、私たちが心の中に作っておいて
私たちの心の中で、ま〜たそんなふうに創造しておいて
また、私たちの心の中で、終わるのです。
それもやはり、自分に帰結されるではないですか。
だれかが皆さんの代わりに 食べてくれて
代わりに考えてくれ、代わりに死んでくれる、
そんなことでもありません。


私が昨日も皆さんに、もう一度強調したのは、それです。
この世で、そんなにも偉大でたいした人も・・
ある人はものすごく、豪華絢爛に生き・・・
権力で、名誉で、お金で生きますが
結局は、死ぬとき
そのように財閥のように死に・・
権力者のように死に、名誉の中で死ぬ人がどこにいますか。
この度のように、権力者たちが死に、
お金がたくさんある人たちが死ぬのを見てください。
自殺して死ぬのを。


結局は、水の泡です、皆さん。
その水の泡がどんなに大きく見えても、結局は、水の泡に過ぎないのです。
家ほどの水の泡でも、小さな水の泡でも
針一刺しで、破裂するのです。
皆さんの富貴・栄華・権勢として、
皆さんが設定しておいたものは、それと同じです。
そうではないですか?


そして小さい水の泡をもっている人たちは、どうだといいましたか?
何か少し、もっと色が美しく、もっと少し大きな水の泡が、
偉大に見えるでしょう。
けれども・・
一瞬なのです、皆さん。
それなら、この世というのは、偉大で壮大なものではありません。
そんなように、水の泡と同じ虚像だというのです。

更新日: 2013-01-15 17:01:34