編み物とランニングと自覚

こんにちは。
今回のメルマガを担当いたします善鈴(そにょん)と申します。

これまで、このメルマガで、様々な角度から自覚の素晴らしさをお伝えしてきました。
また、具体的な自覚のやり方もお伝えしてきました。
実際に自覚を実践する段になれば、いろいろなスタイルで自覚をする人がいます。
それは本当に人によって様々です。
どれが正しいというものはありません。
今日は、私が自覚する上で助けになっているいくつかのアイディアをご紹介しますが、
これらは善鈴というキャラクターの性質にあった一つの考え方ということです。
もし読者の方にとって一つでも参考になるものがあれば幸いです。

いきなり趣味の話をするのですが、私は昔から編み物が好きなのです。
それから、最近始めたランニングが妙に自分の性質に合っていたようで、最近はマラソンにはまっています。
編み物とランニング。
全く異質の活動のように見えますが、私の中では、この二つはとても似ているという感覚があります。
それは、どちらも一つ一つコツコツと進める作業だということです。
先のことをイメージしすぎない。

たとえば、これから一枚のセーターを編むとします。
「さあ編むぞ」というのは、最初に決めればそれでよいのです。
編み物というのはとにかく時間がかかる作業です。
後身頃を3センチ編むのに1時間かかるなんてザラなのですが、
この時点で、この後まだ前身頃を編んで袖を編むんだなあ、どれだけ時間がかかるんだろう・・・というところまで常にイメージしていると気持ちが萎えるのです。
だから、一目一目編んでいるその瞬間を楽しむようにしています。

また、フルマラソンを走るときは、
これから42キロ走るのだ!とスタート前は気持ちを奮い立たせますが、
走り始めたら、今走っている自分の一歩一歩に集中して、
自分の体のコンディションを確認したり、沿道の声援や景色を楽しんだりします。
趣味で走っているアマチュアランナーなのですから、
走ること自体を楽しまなくては何のために走るのかわかりません。

ずっと先にある完成形=理想の自分(という名の架空の自分)を追わない。
今できることを一つずつやる。
今の自分を確実に受け入れる。
今起きている現象を、確実に受け取る。

というわけで、これは自覚の実践にもそのまま当てはまると思います。

編み物の一目一目、ランニングの一歩一歩は、とてもささやかな、でも確かな達成であり、
進んでいないように見えるけど、確実に進んでいるのです。

そうはいっても、壁にぶつかっているように感じるときもあります。
最近自覚がうまくできないなあと感じる時期もあるでしょう。
でも、自覚がうまくできないなんて、ありえないのです。
「誰がそう考えている?」
「ああ、自覚ができないと考えてるのは私だなあ。」
これだけでも立派に自覚していることになるからです。

自覚がうまくできないと感じるときって、多分自分の中になにか不快感が生じているときなのではないかと思います。
不愉快になるような思考や感情が繰り返し襲ってきて、落ち着かないとか、気分が晴れないとか、
そういうときに「自覚がうまくできない」と言っている人が多いような気がします。
それは、「自覚ができているときは気分がいいものだ」という考えが起こす錯覚だと思います。

不快感は単なる現象で、何も悪くないのです。
不快感というのは、それをきっかけに自覚をしたくなり、
自覚をした結果、自分の思い込みを発見できたり、その思い込みから解放されたりというありがたいものでもあるわけですが、
不快感それ自体は自覚とは関係なく、単なる一つの感情にすぎません。

また、同様に気分の良さも自覚とは何の関係もありません。
自分がとらわれていた考えから解き放たれた爽快さと喜悦感は本当に格別で、
自覚を教えてくださった師匠や、気づきをサポートしてくれた道伴たちへの感謝に居ても立ってもいられないくらいのありがたさを感じることもありますが、
その喜び自体が自覚ではありません。
(道伴=自覚を共に学ぶ仲間のこと)

考えや感情は「ほう、私はこんな考えをつくったか」と、私の創造物として鑑賞するものであり、
創造主である私こそが尊いものです。
ですから、「やったー、わかったー」という快感は素晴らしいものですが、それにとらわれないことも大事だと思います。
たまにやってくるそれはご褒美と思えばいいでしょう。

私も、まだ自覚を始めて間もなかったある時期、不快感に振り回されそうになっていたことがありました。
何か理由がわからないけれども、しょっちゅう心が荒れ狂っていて、
何もかもが気に入らない、
自分のやっていることがことごとく的外れなような気がして仕方がない、
とにかく落ち着かない・・・。

表面的には穏やかに過ごしていても、心の中は荒れ狂っていたその間、
何をやっていたかといえば、
「今日もこんなに落ち着かない私がいるなあ」と自分を見て、
「何が気に入らないんだろう」と自問し、
「荒れてる私でもいいよ、そのままでOKだよ」と自分を受け入れようとしていたのです。
「自覚なんてもうイヤ!」と考えながら、同時にもう癖になってしまっていたので、自然と自覚していたのです。よく考えてみると笑える話です。
それは心の中にあったもやもやを吐き出す期間だったらしく、1〜2か月ほどで自然と治まりました。
その体験を通じてわかったのは、どんな状態であっても心さえあれば自覚はできるということでした。

ゲート師匠の講話の中に、どうやって自覚するのかという話がたくさんあります。
何か悩みや気にかかることがあるときはそれについて自覚するので精一杯ですが、
気持ちが落ち着いている状態で自覚をするときは、今どんな自覚をやってみたいか、自分に聞いてみることにしています。
自覚を定義するのは難しいのですが、私はとりあえず「自分自身に意識を向けること」と考えています。
そうすると、自分に問いかけること自体がそもそも自覚なわけです。

気分によっては瞑想してもいいし、
感謝できることを探して感謝の気持ちで自分を満たしてもいいし、
あるいはもっとシンプルに「誰がそう考えている?」「私」と問答してもいいし、
ただ自分を感じてみてもいいし、
考えをどんどん書いてみるのでもいい。
そう考えると、私を知りたいという気持ちの発動(発心)がもう自覚なんだということが腑に落ちます。
自覚ができていないときというのは、「自覚」ということ自体を忘れているのです。
「あ、もう何時間も自覚してなかった」と気づいたということは、その瞬間自覚したということです。
自覚していなかった数秒前はもう過去であり、今はもうないので、今自覚しているそこからまた出発すればいいのです。

自覚をすると何が起きるのでしょうか。
自分が作った考え、感情をきちんと観ると、その考えや感情が自分から離れます。
言い換えれば、その考え、感情が私ではないと気付くようになります。
すると気持ちが楽になり、自由になります。

さらに進めて、私というものの本質にそれだけ近づくことになり、私への理解が深まります。
聖者が語る「真我」について、最初は「さっぱりわからん」とか「わかったつもり」という感じだったのが、何故か、「あ、わかるかも」に変わっていたりします。
でも、気のせいかもしれません。ここに関してはまだ自信はないです。(笑)

認識の主体(創造主)である「私」が強くなってくると、私が作る考えや感情(認識の対象)に気付きやすくなり、そこから抜けやすくなります。
これを私は「心の体力がつく」と呼んでいます。
ランニングでも、体力がつけばハードな練習もこなせるようになり、ますます体力がつくように、
自覚でも心の体力がつけば、ハードな実践もできるようになります。
自覚においてハードな実践というのは、エゴと向き合うことだと思います。
エゴはとても狡猾なのです。
エゴがどれだけ厄介なものかについて語り始めると、もう大変なことになるのですが、
大まかにいうと、とにかく絶対に気づかせないようにあの手この手で「私」を丸め込んできます。
そういうものだと知っていないと簡単にやられてしまうのです。

それを助けてくれるのが道伴の存在です。
道伴と話しているときに、自分と同化してしまって気づいていなかった考えに気づいたり、
人の中に見ているものが自分の中にもあることに気づけたりと、
とにかく道伴がいることによって助けられる部分は大きいです。
悟りは極めて個人的なことではありますが、キャンドルライトでは仲間と共に歩んでいけるようになっており、それはとても意味のあることだと考えています。

自覚を進めていくと、自分の中で無条件に「これが正しい、これでいいんだ」とくつろげる真実というものがあるのが感じられるようになります。
それは相対的なものではないから、人と比べて「あれが正しいならこっちは間違っている」という性質のものではないのです。
そのときの私に心底しっくりくる解答というものがあるのです。
それを探し当てるとほっとします。
探し当てられると知っているだけで安心できるものです。
その解答も一つの考えであり、いずれ変わるかもしれないし、
人に押し付ける必要もないし、主張したり証明したりする必要もないのです。

悟りに興味をもたれた方は是非キャンドルライトの門を叩いてみてください。
同じ志を持つ仲間との出会いを心から歓迎いたします。
長文を読んでいただいてありがとうございました。

配信日:2018年6月21日