歴史と自覚〜妄想と思索の狭間で〜

タケヤンです。
虚実とりまぜて文章を書いてみました。フィクションを書こうと思って書いたわけではありませんが、結果的にそのようなものになってしまったかもしれません。
文章内ではあえて「自覚」という言葉は入れておりません。
メルマガとしては長いですがどうぞおつきあいください。


「歴史と自覚〜妄想と思索の狭間で〜」

「歴史とはなんであるか」と問い続けている。
昨年夏にそれに関わる仕事に就いたためである。この自分への問いを発する背景には「歴史なんていらない」という考えが隠れていることは自明である。
一方で例外はある。たとえばそれに関わる職業に就いてしまった場合である。つまりお金を稼ぐために本来は「いらない」ものが必要になることもある。
その例外にすっぽりはまり込んでしまったがゆえに、本来はお金のためなのにそれも意識をせずに大真面目に歴史の本質を考え続けた。そうしながら大都会の真ん中の地下5Fにある巨大倉庫で、段ボール数万箱分の歴史的公文書と対決しなければならなくなった。

もちろん、多勢に無勢、負けっぱなしではある。
自分の勝利の基準はただ1つ。膨大な文書の中から、今編纂中の歴史書に真に必要と思われるものを探し出すことである。だからこそ「歴史とは」という屁理屈も考えなければならなかった。
ところが探しても探しても見当たらない。いらない図面の束だったり、勤怠の書類だったり、役所外の人間には無縁の帳票管理簿だったり。その中から必要と思われるものは、ほんのわずか。段ボール数十箱のうちの1つの箱、その中の数百枚ある書類の中の1枚、そのほんの数行の文章という割合なのである。ほとんどが面白くもなんともない、歴史編纂にはまったく無縁と思える文書である。それらと毎日毎日8時間も顔を突き合わさなくてはならない。
ついウトウトしてしまうのもわかるだろう。すると決まって妄想が現れる。ときには峰不二子のようなグラマラスな女性だったり、三つ葉をちらした好物のカツ丼だったり、なぜか西武線新型特急のプラレールだったり。
妄想といっても、一般に現実と呼ばれているもの自体が本来は幻想であり妄想であるのであるから、妄想も世間でいう現実のうちかもしれない。

この日は強烈であった。高さ数十メートルの天井まで伸び、数百列にも渡って並んでいる棚。そこにびっしり埋め込まれた数万の段ボール箱がいっせいに口を開き、中から公文書が飛び出したと思うと、びっしりと自分の身体を包み込んだのだ。
まるで紙にくるまれたミノムシのようになってしまった。といっても体中が公文書で覆われているのだから自分の姿が見えるわけはないのであるが、そこは妄想である。その中にいる自分を認識できるとともに、ミノムシになっている自分も外から見えるのである。
埃のついた紙にくるまれているのだから、喘息持ちの自分としては苦しくて仕方がないはずである。しかし、なぜかミノムシの殻(から)の中は快適であった。幼虫と同様に体を自由に動かすことができる。しかも、紙と紙の間にちょうどよく隙間が開いていて外を覗くこともできる。それで暗いと思いきやミノムシの中は存外に明るい。だから公文書の内容を把握することができた。

読んでみて驚いた。あれほどつまらないばかりと思っていた公文書が「面白い」のである。ミノムシの中で読めるものは手当たり次第当たってみた。
この仕事に就く前まではテレビの仕事をやってきたのだが、その職業柄「面白い」という言葉に格別のこだわりがある。自分のいう「面白いネタ」とは、笑えたり、興味深かったり、知的好奇心をそそられたり、ストーリーが良かったりとそういうものだけではない。感涙したり、見ていて苦しかったり、ときには、強く吐き気を催したり、胸の中を血だらけに掻き毟られたり、自分を自分で殴りつけたくなったりと、そういうものなのだ。安易な表現だが、一言でいえば「胸に響く」と言おうか。
体を取り巻く歴史的公文書は、その意味で眠っていた遺伝子の記憶を躍動させるような、「面白い」にかなったものばかりなのだ。
地域のみならず今や日本を代表するレジャースポットとなった、とある場所の建設に関わる秘話。実は血まみれの反対運動があったとか。
昭和30年代の資料であるが、ある職員が田舎にある保養所に左遷された、その理由が「仕事がのろい」ということであったとか。―実は自分自身が仕事の遅さにいつも悩んできた。そのため、この地下倉庫に飛ばされてしまったという経緯がある。
はたまた、ある川に橋をかける事業にかかわる計画書をみたとき、自分とはまったく無縁の出来事なのに無性に悲しくなったり。
ともかく公文書といわれるものが、ただの紙ペラではなく、自分の心を激しく揺さぶるネタになってしまったのだ。

「それだけが、歴史だ。」
いきなり公文書のミノ(蓑)の外側から年配の男性の声が聞こえてきた。妄想の中にいる自分は、その声が聞こえたことに対してはなんの違和感もなく、ただその内容について疑問を生じていた。
(といっても、この地下倉庫には段ボール数万箱ある。恐らく自分の身体の周りにミノムシの殻のようにまとわりついている紙は、その1万分の1もないだろう。それ以外の膨大な書類もすべて歴史的公文書のはずだ。)
 心の中を聞いていたかのように、男の声は畳み掛けてきた。
「違う。おまえの身体にまとわりついているものだけが歴史だ」
 自分は、目の前の穴から、ミノムシの殻の外側をおそるおそる覗き込んでみた。
 なんと、そこにはゲーテが立っているではないか。あのドイツの作家ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテだ。もちろん彼は19世紀前半に死んでいる。ところが目の前にヨーゼフ・カール・シュテイラーが描いたあの有名な肖像画によく似た老人が突っ立っていた。
(どうせ似非だろう。)その怪しい彼は続けた。
「歴史は、客観的に見なければいけないのだ。」
(当然だよ)、自分はそう思った。
「ところがいつの時代からか科学的に観ることが、『客観』になってしまった。アンタらはもう、その観方にたっぷり浸かっている。」
(ゲーテが『アンタ』なんて下品な言葉を使うはずがない。やはり似非だ。)
「アンタらの科学的に観ようという背景には、商売で儲けようとか、政治的にうまくやろうとか、何かに利用しようとか、必ず意図が入っている。それを私らの時代では『主観的』といったのだ。」
(じゃあ、歴史を客観視するとはどういうことなんだ)と思うや否や、似非ゲーテはかぶせてきた。
「歴史に登場した人物を尊敬することだ。出来事に感動し、共感共鳴することだ。時には、吐き気を催すくらい嫌悪感を抱くことだ。」
(それは、私が放送作家として培った『面白い』というものの観方に限りなく近いのではないか。これは現代に使っている「主観的」ということに他ならないのではないか。)
「だいたい歴史を観るのに、それ以外の観方があると思うか。教科書に出てくるような歴史的事実をアンタは一度でも見たことがあるのか。」
(もちろん、ない。)
「歴史は、今それを読み、心の中に生き生きと甦らせた人の中だけにある。歴史という自分とは別の事象が、アンタの外側にあるわけではないのだ」
(そういえば、ゲーテが死んでから、およそ30年後に生まれた哲学者クローチェは、『すべての歴史は現代史である』と言っている。現代人つまりそれを今読む人の中にこそ歴史が存在するということだろう)
私の心を完全に見透かしている似非ゲーテは言った。
「クローチェごときの言葉を借りるまでもない。歴史とは自分なんだよ。自分の内側にしかない。もしも自分の中にない歴史があったとしても、それにどんな価値があるというのだ。」
(歴史とは自分。そうか!歴史とは自分を知るためにあるのかもしれない!!西暦645年大化の改新、1789年フランス革命など、たとえ年表にあっても、自分に無縁であれば何の意味もない。『自分を知る』ことのできない事象というものは自分にとって歴史の名に値しないものかもしれない)。私は自分の気づきにちょっと酔った。
「その通りだ。ただし、ただしである。」
(ずいぶん、もったいぶる)
「さらに自分の奥の奥の奥にある『ほんとうの自分』というものを知るには、すべての歴史を脱ぎ捨てなければならない。」
すると一瞬にして、私の身体にミノムシの殻のようにまとわりついていた歴史的公文書が空中に散った。そして、不思議なことにすべての紙が、元の段ボールの中に吸い込まれるようにきれいに差し込まれて行った。
つまり、私の身体からは歴史が消えていた。
まとっていた紙をすべて外した私は身一つになった。
なんだか心まで軽くなった。
似非ゲーテもいつの間にか消えていた。
そういえば、今からおよそ30年以上前の学生時代、ゲーテに夢中になった。当時読んだ岩波文庫『ゲーテとの対話』(エッカーマン著)に、「あらゆるものが退歩し衰えゆく時代は主観的な傾向がある。それに反して、あらゆるものが進歩しつつある時代には、客観的な傾向がある」という文章があったのを思い出した。
(私は大学時代、ゲーテの思想や生き方に共鳴する自分を発見した。先ほど自分に語りかけてきた似非ゲーテは、自分の中にいるゲーテつまり私だったのかもしれない…)

妄想から醒めて仕事を再開した。眼の前の段ボール箱から、公文書の一ファイルをとり出した。
 冒頭にも書いたが、数年前より「歴史なんていらない」という結論じみた言葉が頭脳をよぎる。この「歴史の必要性への疑問」は、私の中のゲーテが「自分の奥の奥の奥にある『ほんとうの自分』というものを知るには、すべての歴史を脱ぎ捨てなければならない」と語っているせいかもしれない。
(それにしても、『ほんとうの自分』などと禅坊主のような事をゲーテは作品の中で書いていたかなぁ。)
妄想とはいえ、殻を脱ぎ捨てて少し軽くなった身体を感じながら、私は書類をめくる指の感覚を確かめていた。
(END)

配信日:2019年6月10日