投稿日:2020年6月18日
最終更新日:2020年6月18日

無境界

「私の心が美しければ、世界中が美しい。」と

偉大な心の真理を説いた維摩居士(ゆいまこじ。維摩詰。)には、娘が一人いました。

彼女の名前は月上です。

生まれた時から赤ちゃんの体がひときわ輝いていて、近所の人々がつけてくれた名前だそうです。

ある日、お釈迦さまの弟子である智慧第一の舎利子が城に入っていくと

いつのまにか乙女へ成長した月上が、城から出てくるのが見えました。

舎利子は彼女に「どこへ行くのか。」と尋ねました。

月上は応じて、「私は舎利弗さまのように、そのように行っています。」と答えました。

再び舎利子は問うて「私は城に入っていき、そなたは城から出てきているのに

どうして私のように行っていると答えるのか。」と言ったところ、彼女はむしろ聞き返したのです。

「お釈迦さまの弟子たちは、どこに留まっておられますか。」

舎利子は答えて、「お釈迦さまの弟子たちは、大きな涅槃に留まっている。」と言いました。

これに彼女が言うことには「お釈迦さまの弟子たちは涅槃に留まっているので

私も舎利弗さまのように、そのように行っている、と答えたのです。」

この問答は、禅門拈頌 第71則に出てくる公案です。

境界に引っ掛かっている者と境界がなくなった者を示してくれている禅問答です。

その当時、舎利子をはじめとしたお釈迦さまの弟子たちはみな、涅槃という

我相(がそう)、すなわち間違った観念に陥っていました。

つまり当時のお釈迦さまの弟子たちは、悟りを何らかの至高な状態に留まることだと

勘違いしていたのです。

そして維摩居士の娘、月上は、舎利子との問答で鋭く指摘してくれているのです。

すなわち
涅槃とは、あなたがたが作り出した概念だということを、です。

それで、月上は言います。

来ると行くもなく、出ていくと入ってくるも、ない。

娑婆世界が他にあるのではなく、涅槃が他にあるのでもない
唯々 心があるばかり。

(この文章は2020年1月14日に書かれたものです。)