投稿日:2020年8月6日
最終更新日:2020年8月6日

規定

ある日、一人の人がお釈迦さまを訪ねてきて言いました。
「あなたは誰ですか。
あなたの正体は何ですか。」
お釈迦さまは言いました。
「それはあなた次第です。
全ての判断はあなたのものなので、私が誰なのかも、あなたにかかっているのです。」

当時その人は、お釈迦さまの言葉の意味を理解することができませんでした。
その人はおそらく、お釈迦さまから「私はこんな人だ、私は悟った人だ、私はこんな境地にいる人だ、
私は偉大な存在だ」というような答えを期待したはずです。
しかしお釈迦さまは、「自分は誰々だ」という事実について一言半句の言及もしないまま
「それは判断する人の仕事だ」と説いてあげます。

お釈迦さまは誰でしょうか、私は誰でしょうか。
私は何らかの概念に規定される存在ではありません。
私は誰にでもなれますが、私はどれにもならずにいることもできます。
私は判断の主人であり、規定の創始者であり、定義の主体であるからです。

お釈迦さまは誰かと聞いてきた人は、すでに自分自身について規定をしていた人です。
そうであるのでその人は、お釈迦さまに、「あなたについて、どのような規定を下していますか」と聞いてきたのです。
お釈迦さまは「全ての規定は、私自身が作るものだ。私はそれを認識している。
私が私自身についての規定を下し、その規定の中に閉じ込められる愚を犯すな」と示唆しているのです。

私たちはしばしば、「あの人はこんな人だ」という話をよくします。
そして、その人に対する自分の評価に、絶対的な意味を付与します。
そうして、自分の評価の中に相手を帰属させるのです。

たとえば「あの人はいい人だ」と言った時
私は、私がいいと考えている概念の中に、相手を放り込んでいるのです。
いい、悪い、嫌いだ、正しい、間違っている……
初めは好きでも後では嫌いだと言い、初めは本物だとしても後には偽物だと判断する…
しかし、このような規定と判断と設定と定義は相手のものではなく、私の規定であり、私の設定であり、
私の判断であり、定義だというのです。

私はいつも、このような私の規定と私の判断に、泣いたり笑ったりしているのです。
決して相手によって生じるのでもなく、相手から来るのでもありません。
他人が私を騙すのではありません。私の考えに私が騙されただけのことです。

このように言う人もいます。
「知恵深い私が見るに、おまえたちは愚かだ。
私がより悟ってみたら、悟り不足なおまえたちは未だ未だだ。」

このような人々もやはり、自分の規定に閉じ込められた人たちです。
相手を「愚かだ、無知だ、低落した」と規定する者は、
やはり、自分自身も規定の中に閉じ込められているのを自覚できずにいる人です。

すべての規定は、私のものであって、決して相手のものではないからです。
規定は、私にかかっているのであって、相手にかかっているのではありません。
規定から自由な者は、規定が私から生じているのを自覚する者です。
そして、そのような者は、決して他人を規定しません。

一切唯心造
すべてが他の人の心ではなく、私の心持ちにかかっています。
規定… 私にかかっているのです。

(こちちらの文章は2012年9月26日に書かれたものです。)