最終更新日:2013年1月15日
全ての疑問から逃れる道
子供がみなさんに何か質問をしてきたら、みなさんはどの様にお答えしますか?
おそらく子供の水準に合わせてお答えするはずです。
しかしそれが子供に教えるようなことではない場合、「大きくなれば分かるよ」と答えます。
子供が或る疑問を思い浮かんだ時、その疑問は大人の観点から見れば絶対的なものではありません。
それは子供の状態で、子供達だけが持てる疑問なのです。
子供が持つ疑問は子供達の世界では当然のものですが、大人の立場から見ると違うでしょう?
このようにみなさんが宇宙について、次元について論ずる時、
もっと成長した意識からそれらを見るとそれらの疑問は子供の好奇心に過ぎません。
それらは成熟されていない意識だけが問いかけうる疑問だからです。
極端に言えば、疑問が出来たり、未知の何かにこだわるのは成長していない状態でないと出来ないことです。
みなさんが本当に成長して成熟したらそのような疑問が出るわけがないからです。
とすれば或る疑問が出た時どうすればいいのでしょう?
認識作用が有ればそれを「誰がしているのか」を知ることが大事です。
その認識作用は「私」がしています。
だとしたら疑問が根本的に解決されるためには考えが変わるべきでしょうか
それとも私が変わるべきでしょうか?
私の考えが変わったらその前の考えからは逃れられるでしょうが、
考えそのものからは逃れられません。
しかし私自身が変われば疑問が出る考えのパラダイムから逃れることが出来ます。
子供が育って大人になったら自然に疑問から逃れられるように。
大人になると「これがなぜコップなの、なぜこの色なの、なぜこんな形をしているの」などの
子供らしい疑問から逃れられます。
そういう疑問は不要な疑問だということを自ずと分かるためです。
それなのに人々は「真の修行はこうするべきだ、ああするべきだ」という考えを作りながら考えを変化させようとします。
そのような考えを作り出している自分を見ればいいのに、修行に対する未練から必死に新しい方法を探し回ります。
本当の修行をする人なら、それら全ての認識作用と疑問を起こして、
それに対する疑心まで絶え間なく作り出している「私」というものをひたすら観照すべきです。
私という主体が作り出した結果についてみなさんが気にする必要がありません。
それらの考えを作り出す主体について研究するべきです。
まともな修行者は、特別な呼吸法など、より良い修行法を捜し回る人ではなく、
そのような考えを作り出してそのような考えを持つようにする「私」を見つめる人です。
とある考えの根本的な原因から見つめることです。
その原因を作り出すものは誰でしょうか?他でもない私自身です。
その「私」を知ることこそが全ての疑問から逃れる道なのです。