最終更新日:2017年7月2日
スティーブ・ジョブズの思い違い
鏡虚禅師の参禅曲を見ると、このようなくだりが出てきます。
「千万年もの遠い昔から、英雄豪傑も死んで墓場に行った。富貴や紋章も意味がない、黄泉の客となるのを免れることはできない。」
もちろん死の前では、お金持ちも例外ではありません。
それでもこの人、スティーブ・ジョブズは、ほんとうに持ってみたことのある人なので、こんな文章を書くことができたようです。
けれどもほとんどの中途半端な金持ちたちは、もっと持つことができなかったことに対する未練が残って、決してこのような文章を残すことさえできないのです。
彼らは死ぬ瞬間まで、もっと行けなかったことに対する未練と悔恨を持って、去って行きましたよ。
私はこんな部類の人々をたくさん見てきました。
以前、あるお坊さまが書いた本のタイトルを思い出しました。
『おい あの世に行く時、何を持って行く?』
残念ながらあの世に行く時に持って行けるものは、何もありません。
スティーブはそれでも「私が持って行ける物は 愛情にあふれた思い出だけだ」と言いましたが、
それは生前の、スティーブの素朴な願いであるだけです。
肉体で再び転生した時、どこの誰も前世の記憶を持って来れないまま生まれるように
肉体を抜け出して死の過程を経る時、どこの誰も生の記憶を守ることはできません。
ある刺激があった時、ぼんやりとしたかすかな感覚を持つくらいが、ほとんどです。
結論的に言えば、生と死が変わる時、そのつながりは徹底的に途切れるというのです。
夢は憶えていられると言っても束の間に過ぎず、すぐに現実の領域では跡形もなく消えてしまうように
生の前では死がそうであり、死の前では生がそうなのです。
したがって死んだ後での生の記憶は、刹那に過ぎません。
なぜこのような事が起こるのでしょう。
知らないからです。
私が誰かを知らずに生きているから、私は生きたといっても私の生が何なのか、わかることができず
生が何であるかわからないので、私の死もまた、わからないのです。
したがってすべてのことが、わからないまま進められているのです。
無知、迷い、迷妄、没自覚の状態で、です。
目覚められないとは、このように、夢の中を彷徨っていることなのです。
夢のような生を生きて夢のような死を迎え、夢のような死後の生活をして
夢のような輪廻をし、夢のような転生をするのです。
夢が夢を生んで、その夢の中でまた別の夢を見ているのです。
私たちは世の中で最も価値のある事は、悟ることだと聞いてきました。
事実上、私たちがこの世の中で、これ以外にはすることがないのです。
なさってください。
(この文章は 2015年12月29日に書かれたものです)