投稿日:2013年1月15日
最終更新日:2013年1月15日

主人は私 - 3

それを、お釈迦様が、そのように話したのです。
金剛経でお話になった「如夢幻泡影」のように
これは水の泡でもなく、
夢の中の水の泡のようだと言っているではないですか。
夢の中の水の泡・・

この夢の中で、そこにしきりに、
また何の名誉だ、何だかんだというのは
そこで、もうひとつの水の泡を作るのと同じです。
この世が夢であるのに・・そうではないですか?
この世は、夢に過ぎざるをえません。

今、まさにこの瞬間に心臓麻痺にかかって死ぬじゃないですか、皆さん。
うん?今、この一秒に、どれほど多くの人々が死んでいっているでしょう。
死ぬ前までは、どれほど多くの設定をしておいたことでしょうか。
自分の体という、この担保が何の値打ちもなく、水の泡のようなのに
そこに無理やり、な?にかをとてつもないものを、
取り留めもなく描くのです。
けれども死ぬとき、オッ!と死んでしまえば、終わりです。

そうしてみると、世の中というものは、偉大で壮大なものではなく
そんなふうに取るに足りない水の泡のようだということを、
一生懸命に証明しているではないですか。死を見るならば・・
死がまさに、この世の・・虚しさを証明してくれているではないですか・・

私が言いました、皆さんに。
皆さんたちが、数千回、数万回を生きたと、そう言いました。
数千回、数万回を生きても、今まで覚えていることができません。
こんな生を70年、80年ずつ、数千回、数万回、
このように生きて来ました。
それでも、ひと?つも覚えていません。今の皆さんたちが。
ほんの直前に、自分が生まれて何をしたのかも、
わからないではないですか。
皆さんたちが死んだら、また、そんなふうです。

私が話した、ここで私が話す、「自覚」がなければ
考えの主人でなければ、その体の主人でなければ
体がなくなり、考えがなくなるとき
主人も死んでしまうというのです。
主人がいないので、死んでしまうのではありません。
しかし、ここで主人を探せば
自分の体が死のうと、考えが死のうと
主人だけは、残るというのです、皆さん。
これが悟りだというのです。

今はわかりません。
今はみんな、こうして一緒に交わっていて、よくわかりませんが
肉身を脱ぎ捨てたときは、天と地ほどの差異があります。
いいえ、肉身を脱ぎ捨てる前にでも、少しの間、肉身を脱いでみたら
どれほど差異が生じるかしれません。

その考えひとつの差異、考えの観点のひとつの差異が
ものすごい結果を呼び起こすというのです。
それでどれほど重要ならば、
この世でい?ちばん貴重で価値のあることは
悟ることだ・・と、覚者が言って来たことでしょう。

悟りは特別なものではありません、皆さん。
どこか他のところから、ポ?ンと落ちてくるのではありません。
聖霊のように・・
自分の悟りの観点を持てというのです・・
なぜか?皆さんは、主人であるので

皆さんが拘束の観点を持てば、皆さんは拘束に取り囲まれて生き、
皆さんが自由の観点を持てば、皆さんは自由の中で生きるために
皆さんは、自由でもなく、拘束でもないのです。
皆さんは、自由も拘束も選択することのできる、それだというのです。
それで偉大なのです。
皆さんは、有限でもなければ、無限でもなく
皆さんが選択すれば、そうなるのです。
ですから、それが完璧な自由です。
何でも選択することができるのです、皆さんが。
ところが皆さんたちは、
いつも拘束され・・私は限界を持っていて、私は何々だという
そんな観点をもっているので、
皆さんは、その観点の中で生きることになるのです。

皆さんが選択した、皆さんの拘束の中で生きるというのです・・
私は誰々だ・・
そうなら、私は誰々だ、
という観点の中に閉じ込められて生きるではないですか。
今、みんな・・

 
ですから、皆さんたちがどれほど偉大でしょうか。
皆さんたちが選択するままに、生きる人たちです。
それは、神でなければ、どうして可能でしょうか。
皆さんたちは、神であらざるをえません。
なぜ?皆さんたちが、選択したとおりになるのですから・・

私が動物園に閉じ込められて生きるというなら、動物園に入るのであり
私が阿呆のように・・これがすべて業だというのも皆さんたちの選択です。
皆さんたちは、因果応報だとか、業障だとか、それなら
ある裁判官や死神がしてくれると思っていますが
とんでもありません。すべて、皆さんが作ったリストです、リスト!

私はこの度の生で、
こんなこんなふうに生きよう、私はこれこれこのようにするといって
皆さんたちが選択した目録だというのです。
皆さんたちが選択したメニューだというのです。
皆さんたちは今、
このように選択したメニューのとおりに、目録のとおりに生きているのです。

重要なのは、メニューと目録が重要なのではなく、
皆さんが選択したということが、重要だというのです。
ですから、何か業障だとか、因果応報だとか、カルマだとか、
こんなものが重要なのではありません。
皆さんが、それを選択したということが、一番重要なのです。

それではなぜ、皆さんが、
そのようなものを選択しないとならないのですか?
皆さんの根本を知り、皆さんの本性を知れというのは
まさに皆さんが、選択することのできる、
そんな自由意志を持っているということを
まさに私が、ここで話している悟りであり、
お釈迦様が話したという仏性というものであり
それがイエス様が話した聖霊なのです。
皆さん、ほんとうの聖霊の概念が・・

いいですか、皆さん。
皆さんたちは、何でも選択することができます。
皆さんは違うといいますが
皆さんは選択を、すべてしたというのです。
皆さんは、自身が選択しておいても、そのことを知りません。

あまりにも永い年月の間、そのようにしていたら
自分が作っておいたものを自分がはまっていながらも、
それを自分が作っておいたということがわかりません。
それで、このように一生懸命に生まれて、
またここの前に座っているのです。

そうではないですか?
皆さんたちがわかっているものは、何がありますか?
七、八十年をこのように生きても、
ず?っと何千回も繰り返して、このように生きたのに
何の記憶もないではありませんか。

なぜか?皆さんたち自らが、
それをまた、記憶するのが嫌なのです。
皆さんたちは、忘却を選びました。
「ええい、私はこれが、ただ頭が痛いから忘れてしまおう。」という
その忘れてしまうことが選択されて
輪廻をし続けても、また生まれても
皆さんが記憶できないのです。

記憶できないことも宇宙の法則ではなく、自然の法則ではなく
皆さんの法則だったというのです。
皆さんの法則です、皆さんの法則。
私自ら、私は忘れてしまおう・・という

皆さんが今まで生きながらも、強烈だった記憶、経験があるでしょう
それは自分が考えようとするので、残っているではないですか。
ところが、忘れてしまいたいことは、みんな忘れてしまうように・・
記憶には、何の問題もありません。
それも、皆さんが選択する内容により、
皆さんが、このように今、思うがままに生きているのです。
それで、もっとも重要なのは、自分です。
私を成長させることです。
そのす?べてのもの、私以外に存在する、そのすべてのものは
すべて、私のために存在するのです。
私を成長させるために、存在するのです。

それたちが、主体になり、皆さんたちの「ために」君臨しても、絶対だめで
皆さんたちの主人公になってはだめです。
無条件、皆さんが主人公です。
なぜか?

選択する意思が、まさに皆さんの本性であり、皆さんの主人公だというのです。
皆さんが選択した、その意思が。
それに対して、確信を持てというのです、皆さんが。

もっと重要なのは、まさに
その確信というのも、皆さんが選択しろというのです、どうか・・
なぜ皆さんは、確信を選択せずに、いつも不信を選択するのですか、うん?

ですからそのように・・
ひっきりなしに、何は何だ、こうではだめだ、ああではだめだ、を
そのように引き回されるなというのです。
私が!するのです、皆さん。

どんな災難が来ても、それに対して責任意識を持てというのです。
これの主人は私だ、というように・・うん?