投稿日:2017年10月1日
最終更新日:2017年10月1日

UFOの話

この間のツアーで、日本の弟子たちに、こんな質問を投げかけました。 
今すぐに世の中の全てを放棄してUFOに乗って地球を旅立てる人、手を上げてごらんなさい。 
しばらく沈黙の中で、二、三人が周囲を見回しながら、手を上げました。 
瞬く間に数十人が手を上げる韓国の弟子たちとは、対照的な姿です。

もちろん、私のこのような質問を即興的な気分で受け入れる韓国の弟子たちと 
慎重に受け入れる日本の弟子たちとは、比較できない何かがあります。 
ある日本の弟子はその瞬間、こんな気持ちがしたとも言いました。 
家を売って預金をおろし、保険の解約をして、全てを売ってキャンドルに寄付すれば、UFOに乗れるように聞こえる 
これは典型的なエセ宗教のパターンではないか

実際にこのような状況が起こると仮定した時、UFOに乗ろうとする最初の決定は 
もちろん本人の取捨選択にかかっています。 
二番目として、本人が乗りたいからといって、乗れるとかぎったわけでもありません。 
UFOに関する話は、たくさんの象徴が盛られている話なのです。

多くの人、ほとんどの人は、世の中の全てを振り落とし捨てて旅立とうとする時、
旅立つのをためらい、恐れます。 
けれどもそれにもかかわらず、全ての人は例外なく選択の余地なしに、UFOに乗らざるを得ません。 
人によってその時期の違いはあるけれど、このUFOは予告なしに訪れるのが普通です。 
このUFOの名前は、死です。

乗りたくなくとも乗らなければならず、願わなくとも乗らねばなりません。いくら乗るまいともがいたところで、無駄なのです。 
死というUFOは、瞬く間に訪れ、瞬く間に連れ去ってしまいます。 
世の中に残されるものに対して整理する時間も与えてくれず、さらに、共に暮らす人々にお別れの挨拶をする時間すらくれません。

死というUFOと師匠が提示したUFOには、どんな違いがあるでしょう。
私にとって、死というUFOに乗らなければならない時間が訪れたら 
私はこのUFOについて、いかなる判断もできず、異議を提起することもできません。 
エセ宗教と正しい宗教に対する分別と、是是非非を分ける
私の考えは、徹底的に踏み潰され、完全に無視されるのです。。

死というUFOは、私の人間性を完全に抹殺してしまいます。 
そのようなUFOに対し、私たちはひとかけらの同情も慈悲心も期待することはできません。

師匠が言うUFOは、機会のUFOです。 
私はそれに乗るために、準備することができます。 
死と同じ状況で、私は自由意志を持つことができるのです。 
私は全てのものに対する執着を振り捨てることができ、それから自由になれるのです。 
そして私自ら全てを整理することができ、選択することができます。

私は世の中で生きながら、世の中を学び、世の中をわかり、世の中を経験しました。 
私は世の中の全てを理解したので、世の中の全てを許容して包容して受容するようになりました。 
それゆえ私は、もう世の中を卒業することに、どのような心残りも未練も残りません。

こうした人は死のUFOが訪れて来る前に、師匠が言ったUFOの搭乗客になって、地球を旅立つようになるのです。

(こちらの文章は2015年02月14日に書かれたものです)